Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

金沢の金属工藝①大正から戦前の昭和まで

$
0
0

【金沢市】
大正期の金沢の金属工藝は、ほぼ工房制で親方が技術者で意匠家(デザイナー)そして経営者として注文を取り、多くの徒弟と下請職人を抱え製造・販売を行っています。10代目水野源六は銅器象眼鋳造販売を長土塀4番丁で工房を構えています。銅像を得意をとし、他に建築金物等を受注生産していました。藩政初期から続く茶釜の宮崎寒雉は彦三1番丁に鉄瓶を始め鋳造・販売の工房を構えています。


(昔の金沢・武蔵ヶ辻田守呉服店・今のエムザ)

他には、金属細工は南町の大田兄弟商会、下今町の柿畠甚工堂、宗叔町の米沢清左衛門、尾張町の向田武吉、貴金属製造販売の村田余所冶、下今町の山川孝次、英町には才田純幸堂、彦三8番丁八には缶類製造・販売の正部弥太郎、七宝町の鉄硯の現金堂、それから大聖寺の鍛治町には美術鉄槌製造・販売の山田宗美の工房がよく知られていました。


(当時、電話の普及が少ない時代でしたが、水野源六、山川孝次、才田純幸堂、山田宗美
の工房では、電話が設置され経営活動が行われていたそうです。)



(昔の加賀象眼道具・尾張町佐野商輔)


明治の万国博覧会以来、工藝は国策として政府や県の助成を受け産業としての工藝品が作られてきますが、明冶の中期になると繊維工業の発展から工藝品は産業としての役割を終え、金属工藝の一部鋳物技術などは機械工業に組み込まれていきます。また、石川県では大正10年(1912)に石川県工藝奨励会が発足され工藝作家としての道が開け、昭和2年(1926)には「帝展」に第4部(工藝)が設置されます。



(昔の加賀象眼道具・尾張町佐野商輔)


その頃の職人の地位は、みじめの一言に尽きるといわれています。それは金属工藝職人においても同じで、その環境から脱出するには、工房の親方になるか職商人になるしかなかったのが「帝展」に工藝部門が設置されたことで、工房に所属しない一般の工藝職人でも入選すると美術家として認められ、製作品が高価になり作家として自立できるものと期待し多くの職人は展覧会に出品するようになります。



しかし、展覧会出品は職人達に材料代や時間、それから問屋や師匠などの抵抗もあり、職人達には大きな負担が掛かり、大多数の職人は工房や問屋の下請けに逆戻りしています。昭和の1桁くらいまで、10代目水野源六が組合長の県金属工藝同業組合の作家・職人は135人といいますが、おそらくそれ以外に金属工藝に携わる職人見習いも含めて金沢には300人ぐらいが金属工藝に従事していたものと思われます。


(昭和38年(1963)の毎日新聞には、戦後衰退の一途をたどり、4名の名を上げ、指を折るくらいしかいないと書き、後継者はここ10年間一人もいなく技術保持者でも辞めていったとあります。)



(昔の金沢駅)


満州事変がはじまり昭和13年(1938)になると「国家精神総動員法」が布告され、経済統制が急激に強くなり、金属工藝界もこの年、銅・鉄の使用制限令により製造が次第に困難になり、昭和14年(1939)には半製品を完成させるという名目で製造許可をとらなければ造ることが出来なくなり、工房の親方及び展覧会に入選した作家以外の金属工藝職人への資材の配給は停止になります。


(石川県では、商工省に掛け合い、加賀象眼・寒雉鉄瓶・鉄工打出し工藝の3種のみ継続許可されます。)



昭和15年(1940)7月7日には、通称七・七禁止令といわれた「奢多品等製造販売制限規則」により九谷焼、織物、加賀刺繍は転業せざるを得なくなり、10月には国民徴用令が施行され、多くの職人は軍事産業へ転身。金属工藝職人は中島航空機の下請けの航空機工場(金沢産業株)に多く転職したといいます。



(加賀象眼の花瓶・尾張町佐野商輔)


昭和16年(1940)には「芸術家保存要綱」の基づき「石川県芸術品規程」が告示され、翌年に知事名で「芸術家」49名「作家」19人合わせて68名決定し、七・七禁止令に関わらず一定の枠の中で、製作資材の配給か行われたといいます。


(つづく)


参考文献:「金沢学④ホワットイズ・金沢」黒川威人編・発行所|前田印刷株式会社出版部・平成4年(1992)発行・「金沢学⑤パースペクティブ・金沢」水谷内徹也編・発行所|前田印刷株式会社出版部・平成5年(1993)発行


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles