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金沢の金属工藝②終戦後の昭和

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【金沢市】
昭和20年(1945)8月15日、第2次世界大戦が終り、敗戦後、生活物資の欠乏から伝統工藝や伝統産業が無用の長物化し、軍需工場に転出した職人達の多くは、民需工場に転じた工場に留まり工藝職人に復帰することを諦めざるをえなくなります。中には工藝職人に復帰した人もいますが資材も供給がなく工場に逆戻りした職人も多く、象眼師や白銀師たちは板金工や仕上げ工として働き出したようです。



(使われなくなった加賀象嵌の道具)

それでも一部の職人は、副業として製作していた者もいます。古い装身具、金属品の修理などをあつかいますが採算がとれず、職商人のなかには、戦前に引き続き兼業で時計や眼鏡の修理や販売を積極的に行うものいましたが、作家以外の金属工藝は壊滅状態に追い込まれます。それには、戦時中、選ばれた工藝作家だけが資材配給されたことにより階級・階層関係をつくったことが遠因のように伝えられています。


(昭和16年(1941)作家による職人技術の保存を目的に「石川県芸術品規定」が告示され、保存品目を発表、県では68人(芸術家49人・作家19人)が決定され、これで一般工芸職人への資材配給はなくなってしまいます。さらに昭和19年(1944)には、製作品を提出させ審査によって資材受給資格を認定し登録します。それにより選ばれた作家は甲・乙・丙種に区分され、それぞれは一級から三級に分れ、その種と級により資材配給量が決められ、その配給権は、当時、県の工藝指導所にあったらしく、昭和11年(1936)から工藝指導所の金工部門の責任者だったのが高橋勇氏だったといいます。)



高橋勇氏は金沢市の実業練習生として東京美術学校へ留学し、昭和4年(1929)金沢市産業課の金属業界指導員となり、日展系の作家活動の一方で、石川県工芸指導所に入り昭和41年(1966)所長、昭和62年(1987)には石川県美術館館長をつとめるなど、戦後、頭角を現し時代の流れもあり、芸術としての金属工藝作家として台頭し、県の美術工藝界の指導者となります。一方、戦後も10代水野源六(清)氏は衰退する産業として金属工藝業界の旗頭で、戦前の資材ストップへの反発もあったのか「高橋氏は、業界の指導を怠って自己の栄達ばかり計っている」と新聞その他で弾劾を始めます。



(高橋氏が館長を勤めた旧石川県立美術館・今、伝統産業工芸館)


その弾劾は、昭和29年~31年末に掛けてのことですが、強調されたのは高橋勇氏の作品は職人に代作させたことを論(あげつら)います。「それは、はたして高橋氏の作品と言えるのか?」というもので、今も極めて重要な議論すべきことではありますが、“工藝作品は何処まで本人が直接手を下していかなければならのか”という問題が含まれています。


それが何か興味本位で中傷合戦のように一般に受け止められ、議論が深まらず、やがて水野氏自身が高齢のため仕事もままならず、産業としての金属工藝業界も衰退の一途をたどっていきます。やがて美術工藝としての金属工藝もまた後継者不足に落ちいって行きます。


(本来、金属工藝の分野では、殆んどが工房制で、すべての工程を一人の作家で作られるものではなく、むしら作品として一人の作家で製作するようになるのは大正時代以降のことですが、それでも金属工藝の世界では、今も、すべて一人というわけではなく下職や部分的な作業は、職人や助手に手伝わせている例もかなりあるとか?)




(つづく)


参考文献:「金沢学④ホワットイズ・金沢」黒川威人編・発行所|前田印刷株式会社出版部・平成4年(1992)発行・「金沢学⑤パースペクティブ・金沢」水谷内徹也編・発行所|前田印刷株式会社出版部・平成5年(1993)発行など


(この項の要旨は、金沢学④ホワットイズ金沢」田中喜男著の「金沢の職人像」の引用によります。)


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