【金沢市】
戦後、金属工藝の業界を壊滅状態に追い込んだのは国や県・市など行政だといわれていますが、金沢市ではこのような危機を救うため、市のバックアップで、「加賀金工振興会」が設立されます。そのきっかけは昭和38年(1963)7月20日から8月18日の30日間、市と金沢市工芸協会の共催で「加賀金工美術展覧会」を前年にOPENした金沢市観光会館(今の金沢歌劇座)で開催され、それが好評だった事が始まりだったと言われています。
その年9月5日に、当時の金沢市長や県内の官界、教育界の主要メンバーで「金工加賀象眼を現代生活に結びつけることがその商品と技術保存に通じる事を確認」し、その月25日に、後継者の養成と試作品を作製することのなり、10月9日、象眼技術の保有者18人(金沢金工職人最後の人々)に出席交渉に入りますが、当日出席したのが5人で、他は高齢を理由に欠席します。
当日参加した人も10代水野源六をはじめ、米沢弘安、金岡宗幸、北島清次郎、白山忠次の5人でいずれも高齢者でしたが、ここで加賀金工美術振興協議会が設立され、以下が協議されます。
① 象眼ならびに金工芸に対する後継者の育成。
② 市費による象眼の作品、その他の金工試作品の作成。
米沢弘安氏を会長として「加賀金工美術振興協議会」が発足し、試作品の製作を進めるようになります。
昭和39年(1964)9月30日には金沢美大、県工業試験場への依頼のデザインと原型ができ、米沢会長他4人と市側が交渉。7月3日には、会長宅で10代水野源六も含め8人が集まり図案・完成品の価格を協議し2ヶ月半後の9月半ばに6人の作品が完成し金沢市に引渡され、大阪の高島屋百貨店で展示、即売をするが、高値で1点も売れなかったといいます。
1回だけでは振興にならないという事から、翌年5人の職人により1人2点の作品を図案から仕上げまで制作し、大阪の高島屋百貨店で展示されますが、この年も1点も売れず、製作者一同、製作意欲が減退して「加賀金工美術振興協議会」は解散してしまいます。そのさなか永年、金属工芸の産業化にありったけの力を注いできた10代水野源六氏が、昭和40年(1964)79歳でこの世を去りました。
(私事ですが、昭和30年代の旧友に、現在、歯科医をしている水野紘八郎君がいます。当時、県立工業に入り後に高岡工芸金属工芸に転校していきました。その頃、ばったり駅で会った時なども、転居ではなく金沢から通っているのだ“大変やな~”位にしか思えなかったのが思い出されます。
10代水野源六のご子息だという事も、水野源六家も随分経てから知るのですが、今思えば、年老いた父親の期待を背負い、その金工路線をひたすら歯を食いしばり走っていたのでしょう。
近年、何10年ぶりかで会う機会があり、当時は、親しく口を聞いた事もなかったのに、一夜を共にし、歯科医は金を扱うからと妙に納得、また、共通の知人やその時代の昔話に花が咲きました。)
(つづく)
参考文献:「金沢学④ホワットイズ・金沢」黒川威人編・発行所|前田印刷株式会社出版部・平成4年(1992)発行・「金沢学⑤パースペクティブ・金沢」水谷内徹也編・発行所|前田印刷株式会社出版部・平成5年(1993)発行
(この項の要旨は、金沢学④ホワットイズ金沢」田中喜男著の「金沢の職人像」の引用によります。)