【旧長町川岸】
銅器会社は、政府の殖産興業政策に対応したものですが、これといった産業がない金沢の「工藝の産業化」であり、明冶維新で仕事を失った藩の御用職人や細工所御細工人の救済と失業対策に大きなウエイトが置かれモノと思われます。
(御細工所は、宝暦の大火以後、今のしいのき迎賓館辺りに移転します。)
(御細工所は、宝暦の大火以前は、上記河北門下の新丸にありました。)
当時の新聞に「旧藩当時の馬具、刀剣等の武器の職工及び旧藩の細工人の既に廃棄に属せる者を興起し、無用を転して有用と為すに在り」と述べています。かっての工房制は旧藩金工社会の統領であった後藤家の代行者として領内金工職工を統率して来た水野源六氏が、後藤家勢力の退去後,藩政期150石取りの下級藩士出身の金沢総区長長谷川準也氏と提携することで金工工房の職工を再編成し主導権を握ります。
(明治12年(1879)10月,水野氏が棟取の地位にあった銅器会社を辞職し独立し魁春堂を起こします。おそらく経営上の対立のためとみられるが,この水野の民間への転換は金沢における金属工藝職工の民間工場進出の切っ掛けになります。)
(加賀象嵌のイメージ写真)
明冶10年(1877)第一回国内博覧会に鳳風模様花生,竜巻模様花生,波千鳥模様花生,鼓形雪鶴模様花生,兜形香炉,瓢形猩々模様香炉,蛸に貝模様菓子器,水鉢などを出品し、その内1点が名誉賞牌を受け、他の銅器についても太政大臣三条実美は県令(2代知事)桐山純孝に対し激賞したといわれています。
(第一回国内博覧会では、高岡の職工や団体からも多く出品されますが、銅器会社の製品だけが受賞したことに金沢の金工職工は自信に繋がり、県では明冶11年(1878)パリ開催の世界大博覧会の出品にあたり初代諏訪蘇山(金沢出身で後に帝室技芸員)をはじめ東京から画家を招聘し、形やデザインについての指導を受けると共に,職工を選んで上京させ、塗色・焼色の研究を命じ博覧会開会中には県から2人をパリに派遣しています。)
明治11年(1878)10月4日明治天皇の北陸巡幸に際し,前回にも書きましたが、天皇は銅器会社に立寄りお買い上げ戴き、これを機に宮内省の用命を得ることになります。また、旧藩主前田家の用命や輸出品の製造に活況が続きます。このような活況の続く銅器会社について当時の新聞には「工場は鋳造、轆轤(ろくろ)より精粗の仕上げに至る迄,各席を別て場内の両側に羅列す。ドイツ人ハーレンス氏より注文になりし花瓶は現に製造中に在り。象眼の如き己に工を竣り(おわり)正に研磨の工に就けり,其模様は殊に精密を極めたり」と書かれているそうです。
銅器会社はその後、順調に業績をあげ経営の見通しも明らかになっていた明治14年(1881)当時の蔵相松方正義による不換紙幣の整理が深刻なデフレを引き起こします。そのころ士族の金禄債券を目当に乱立していた金融会社は軒並み倒産し、士族のなかには破産者が続出し,明治18年(1885)8月には金沢士族の破産者は1,090人に達し、中・下級士族は居住地を売却し東京、京都、北海道へ散っていきました。
(東京へ行った士族の多くは巡査となり、なかには子女を芸妓に売る者もあらわれ金沢名物は「巡査と女郎」とさえいわれるようになります。)
こうした金沢の経済的、社会的状況のなかでは工藝職工の生活も暗澹たるもので、明治18年(1885)5月10日付の京都の「日の出新聞」も「輪島の漆器,九谷陶器などの工芸品は全然さばけず」と報じていますが、漆器,九谷陶器だけではなく金属工藝品においても同様でした。
松方のデフレ政策により旧士族の本格的な没落で政治資金の窮乏を来した長谷川準也は資金を銅器会社から持出し、銅器会社は経営難におち入り,明治15年(1882)6月銅器会社の権利一切を野村清一に譲渡し,野村が社長,社員に佐野忠道,鈴木某が参加し、7月には棟取に18人が採用されますが、明治17年(1884)7月会社は休業、10月に再開されます。
(銅器会社跡)
明治19年(1886)4月8日社名を「金沢銅器会社」と改め、新社長に松原直作が就任。しかし,その年の9月6日から休業状態に入り閉鎖寸前となり、同月15日長谷川準也がこれを買収し再び「銅器会社」と改め,10月1日より生産を再開,社長に長谷川が就任。副社長に藤井鉄太郎,社長代理和角某が就任,社員に山口容銅,佐野忠道が参加しますが、ついに明治27年(1894)に閉鎖されました。
参考文献:技術と都市社会研究会「金沢金工の系譜と変容」田中喜男著・国際連合大学
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