【ひがし茶屋街】
昭和初期のひがし茶屋街は、一番丁から4番丁までの戸数は123戸、男子109人に対し女性は530人と圧倒的に女性が多いのですが、その内芸娼妓については、手元にある資料では定かではありません。因みに慶応3年(1867)に再開された当時は戸数112戸、芸妓119人、娼妓164人、遠所芸妓45人に舞妓が居たと記されています。
(稿本金沢市史(風俗編2)では、明治12年(1879)の金沢の民業統計によると金沢町全体の芸娼妓貸座敷業は113戸、芸妓479人・娼妓105人と記されています。)
昭和4年(1929)発行の「金城名花揃」によると、何故か、京情緒よりも東京と名古屋とあわせて2で割ったような情緒だといい、例えば芸妓の技芸向上を披露する場も、京のように歌舞錬場と言わず東京風に演舞場といったと書かれていますが、“ひがし”の演舞場は明治時代にはすでに有りありました。
(東京の新橋演舞場は、大正14年、京都には立派な歌舞練場があるのに、東京にないというのは残念だということから、新橋演舞場が設立されたといいます。)
「舞踏や囃子は、金沢に過ぎた凝り方」と書かれ、だからお客さまも凝り屋が多く抹茶趣味で、四畳半式に、お酒をほどよく上品に味わいながら飲むことから、芸妓も本気とも皮肉とも言えぬことを言い、お猪口をふくみながら常磐津の一口でも試みると言った調子などと書かれています。
今も言い伝えてられている「上町(うわまち)は昔から紹介者がなくては初会の人は揚げない見識で、本当の封鎖という事のあるのはここばかり」とし、浅野屋の音重という名妓は、生娘の芸妓で、祇園(京都)にも見られない奇蹟だと書かれています。
しかも立方(たちかた・舞踏)も地方(じかた・長唄や清元などの唄、語り、三味線)も名取が揃っているが、遊んでいて少しも嫌味がなく、おっとりとしているのが“ひがし”の誇りだったそうです。
とは言へ、旅のお客様には、融通が聞かなかったようで、いいお客様を逃がしてばかりで、一流の芸事を身つけるのにお金が嵩むばかりで、経済的には大変だったようです。その頃“にし“は、大衆化路線で随分繁盛していたそうです。
参考文献:「金城名花揃」紅燈社・昭和4年発行「石川県下商工便覧金沢廼部」大阪龍泉堂・明治21年発行など