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ひがし茶屋街今昔④旧玉初

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【ひがし茶屋街】
今は別の店になっていますが、50数年前の金沢住宅地図の中に旧愛宕3番丁、4番丁へ入る小路から2軒目に、お茶屋の玉初があります。また、35年前に発行された「金沢の老舗」に郷土史の屋敷道明先生が書かれた記事に、明治21年(1888)の「石川県下商工便覧」に“ひがし”の諸江屋、江戸屋と共に載っているところを見れば、当時、すでに「ひがし茶屋街」の代表的なお茶屋となっていたのでは、と書かれています。



(玉初の最初の店・民宿陽月)


”玉初“という暖簾は、店の創業者である玉川初子が由来であるらしく、初子がいつ店を持ったかは不明ですが、初めは旧江戸屋の隣、今の民宿陽月のところにあり、初子はなかなかの腕利きで、盛んなときは芸妓が14・5人もいたこともあったといいます。



(明治21年の玉初・江戸屋隣(玉川トメ?)


元々、初子の父玉川友治郎は、加賀藩前田家の家臣に仕える陪臣だったらしく、明治維新の激動をまともに受け、生活は困窮を極め、父娘ともども片町や竪町で八百屋を営んだり、市内のあちこちで、いろんな商売をやっていましたが何れも上手くいかず、商売でやらなかったのは、風呂屋と米屋だけだと言いますから、その苦労は想像を絶するもであったと思われます。



(ひがし茶屋町の地図・昭和31年)


初子は、さらに紙や提灯の行商で毎日鶴来まで通い、大変な苦労をしますが、それでも家業は行き詰まり途方に暮れていたとき、この行商が機縁になり鶴来で芸妓になることになり、年季を終えて、金沢の“ひがし”で店を持つことになったのだといいます。



(旧愛宕3番丁・左が旧玉初)


初子は、苦労を尽くし辛酸をなめたこともあり、日常の生活ぶりは徹底していて厳しかったそうですが、芸妓たちの世話は大変良く、苦労人ですから芸事に稽古はもちろん、暇があると裁縫や着物の布継ぎまで教えたりして芸妓たち重宝がられたといいます。



(旧玉初跡)


2代目松子になって、先に書いた愛宕3番丁に店を移し、店の規模を縮小して芸妓も5・6人になりますが、松子は、当時“ひがし“を沸かした有名な芸妓で、常磐津の師匠として多くの弟子を持ちながら店を維持し、71歳の生涯を閉じたといいます。



(右が3代目勝子さん・昭和4年「金城名花揃」より)


3代目勝子さんは、昭和4年(1929)の「金城名花揃」の写真で見るかぎり、丸顔で今風で言えば、女優の「杏」さん似の美人で、白黒ですがういういしいが伝わってきます。後に踊りの名手として有名だったそうです。そして、今から35年前、勝子さんは屋敷先生に「最近は芸妓が2人になり、細々と店を続けております。」と沈痛な面持ちで語られたそうです。


あれから35年。ひがし茶屋街では、建物は整備され昔の雰囲気らしさが造られました。お茶屋を生業とするお店はわずか、街は大転換、そして人が押し寄せる観光地と化しました。



(旧愛宕3番丁)


適者生存!?時代のながれ、一寸さびしいけど、商の本質を忘れなければ、それでいいのかも・・・。


参考文献:「金沢の老舗」(風情をあゆむ玉初、屋敷道明著)北国出版社・昭和43年発行・「金城名花揃」紅燈社・昭和4年発行「石川県下商工便覧金沢廼部」大阪龍泉堂・明治21年発行など


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