【ひがし茶屋街】
今、ひがし茶屋街入り口に「はくひとつまみ」という小粋で“ちょっとつまめる”サイズ感で、新感覚の箔商品のお店があります。そこは、幕末、野々市田尻の出身で讃岐丸亀藩のお抱え力士の横雲八五郎が腕をいため引退、郷里で妻”てつ”と力をあわせて開いたという妓楼「江戸屋」でした。
≪横雲八五郎と妻“てつ”≫
宇多須神社”節分“と昔の芸妓さん
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11463329041.html
(表札に「横雲」が・・・)
上記ブログにも書きましたが2階の長押にかかる「荷月楼」の扁額は、前田家に仕えた当代超一流の書家市河米庵の揮毫で、“月”を“荷って”建つ“楼”という書が示すように、“ひがし”を背負って立つということらしく、「江戸屋」は一時、ほかに「江戸菊」「江戸芦」など9軒ものチェーン店があったといわれています。
(「チェーン店」とは、今のフランチャイズチェーンというのと少し違うようです。また、大昔からある“暖簾分け”とも違い、私の理解ではオーナーが同じで店舗の運営や管理を行う経営形態で、鎖のように何店かが連なっている店舗(連鎖店)で、まさに江戸屋は金沢のチェーンの先がけだったのでしょう?)
“てつ”は江戸屋の”おてつ“あるいは”黒てつ“の愛称で呼ばれ、明治の侠女として名をなし、小唄にまで唄われたという伝説の女性だったそうです。21歳の時、洋装でハイヒールを履いて街を闊歩したモダン芸妓だったといいます。時は、明治11年(1878)頃といいますから、今の朝ドラ「あさが来た」の時代、主人公の進んだ女性”あさ“もまだハイヒールを履いた映像は出てきませんので、まさに「びっくりポン」です。
(昭和の中ごろのひがし茶屋街)
また、着物の染め方にしても、定まった紋の一つを外して、襟先の裏に隠し、鼠にくわえさすなど、細かいところに気を配る粋を誇る芸妓であったといわれています。さらに“てつ”は、日清戦争祝賀行列に、浅野屋の“とわ”と共に、私費を投じて赤十字看護服を100着つくり、芸妓に着せて街を練り歩いたといわれています。
時代はくだり、昭和に入り「江戸屋」の主横雲菊枝は、当時、鼓の名妓だった“小菊”で、日本画の荒木十畝氏が、その名に因み可憐で清らかな紅白の菊の絵を描き贈ったと伝えられています。昭和45年頃、当時、ご存命の横雲菊枝さんは、この軸を前に立秋の昼下がり、昔日の前田利為候の話や、第四福助座の嵐冠十郎、花柳章太郎の話などを静かに語られたと聞きます。
(日本画家荒木十畝(あらきじっぽ)は、明治5年(1872、10・5)9月3日→年(昭和19年(1944)9月11日)。昭和12年(1937)に帝国芸術院会員。日本画「旧派」で技術偏重の伝統を墨守した画家の代表的人物と言われていますが、それは初期の傾向で、後には「守旧漸進主義」を掲げて伝統を基礎とした新しい日本画の創造に取り組み、象徴主義的作風から、精神性を強く打ち出した優美な絵画世界を構築したといわれています。)
≪第四福助座と嵐冠十郎≫
下新町蕎麦屋“くら”さん
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10780107526.html
参考文献:「金沢の老舗」(絃歌の里江戸屋・大西喜三次著)北国出版社・昭和43年発行・「金城名花揃」昭和4年発行など