千日山雨宝院の「まよひ子石」
【野町広小路→千日町】全国的に珍しい「迷い子石」は、昔、江戸市中にも人が集まる繁華なところ日本橋の路傍に設けられ、探す人の目に付きやすくしていたようです。一説には、全てでは無いとしても飢饉などで困った親が人目に付き易いところに捨て子とし置き去りしたともいわれていて民族研究の貴重な資料だそうです。...
View Article神明宮の千年の大ケヤキ
【野町広小路】神明宮の大ケヤキは境内にあり、樹齢は私が子供の頃から約千年と言われています。かって文部省「史跡名勝天然記念物」に指定されていましたが、今の肩書きは金沢市指定保存樹第1号です。この圧倒的な存在感は、今も様々の人達を癒し多くの人々に親しまれています。...
View Article金沢アーキテクチャー・ツーリズム①谷口建築めぐり
【金沢市内】建築物を訪ね歩くツアーをアーキテクチャー・ツーリズムというのだそうです。金沢の街をヨソ見しながら歩くと、大きな戦火や自然災害に見舞われなかったことから藩政期、明治、大正、昭和そして現代まで様々の建物が共存していることに気づきます。...
View Article藩政期の一両が1円になるまで・・・①
【藩政期の日本】藩政期の一両とは、今の幾ら(円)になるのだろう?ガイドをはじめた頃からそんな疑問を持ち続けていますが、これが中々難問で、少し調べだしましたが、あまりにも複雑なので直ぐに挫折します。それでも聞かれると何時までも知らないでは済まされないような気がして、今も勉強、挫折の繰り返しです。...
View Article藩政期の一両が1円になるまで・・・③
【藩政期の日本】幕府の崩壊を早めたのは、坂本竜馬や勤皇の志士でも、薩長連合ではなく、日米修好通商条約でありハリスであるといっても言い過ぎでは無いといわれています。日米修好通商条約は、アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったことなどから、不平等条約といわれていますが、もっとも不平等だったのは為替レートだったことはあまり伝えられていません。...
View Article藩政期の一両が1円になるまで・・・④
【藩政期の日本】少しややこしくなってきましたので、振り返りながら話を進めます。硬くなりますが、まずはこの話の基、日本の計数貨幣(名目貨幣)と秤量貨幣について触れます。鉱物資源の枯渇と幕府の財政難から元禄時代に貨幣改鋳で出目益も当て込み、幕府の勘定奉行荻原重秀が金貨の部計数貨幣(名目貨幣)を実行します。...
View Article藩政期の一両が1円になるまで・・・⑤
【藩政期の日本】日米修好通商条約は、日本が日清戦争に勝利するまで不平等条約といわれていました。一般的な関税率が、漁具、建材、食料など5%の低率関税でしたが、それ以外は20%であり、酒類は35%の高関税でした。そこまでは中学生の頃、社会の時間で聴いた覚えがありますが、為替レートが不平等であったことは見落としたか聴きそびれていたのか定かでありませんが知りませんでした。...
View Article前田利家公①生い立ち
【尾張・荒子→金沢】前田利家公について聞かれたので、確か書いているはずだと思い拙ブログを検索すると、関連記事は多いのですが、いの一番に書くべき利家公がありません。ブログはその時その場の思いつきで書いているので大切な人が抜けていました。書かれている関連の記事には藩祖利家公とか初代利家公とまちまちで、何とも締まらないものでした。慌ててそこから勉強のやり直しです。...
View Article前田利家公③七尾そして金沢へ
【安土→七尾→金沢】前田又左衛門利家公の初陣は16歳の天文21年(1552)信長の尾張統一戦のひとつ尾張海津(萱津)の戦でした。その時、敵の首級をあげ「肝に毛のはえた奴だ」と信長を驚かせたといわれています。利家合戦年表によると文禄元年(1592)の肥後名護屋の出陣まで40年間、生涯60近くの戦いに参戦します。...
View Article前田利家公④晩年
【京→大阪→金沢】利家公は、大男で派手好きの“かぶき者”で“バザラ者“であったとされていますが、晩年は温厚で、政治家、外交家として、経済家としてもすぐれ、家康とならび数学にめっぽう強かったと言われています。経営感覚が鋭く、いつも具足櫃にソロバンを入れ持ち歩いたらしく、今風にいうと財テクの名手だったそうです。...
View Article利家公番外編“遺言状”
【大阪→金沢】利家公は、慶長4年(1539)閏3月3日に63年の生涯を閉じますが、慶長4年3月21日、一時、小康状態を保っていた利家公は、長男肥前守利長宛に、妻まつに遺言状を口述で記させたと言われています。それによると、周到で思慮深く、実に堅実な戦国大名であったことが窺えます。...
View Articleひがし茶屋街今昔「旧諸江屋」②金澤しつらえ
【ひがし茶屋街】旧諸江屋が再開したのは平成14年(2002)の蛍屋のOPENでした。当時、私は金沢ボランティア大学校の観光コースに入りが決まり、予習と称して勝手に街歩きをしていた頃、旧諸江屋はまだ空き家でしたが、柳の緑とベンガラの壁が印象的で、噂では浅田屋さんが料理屋を開店するのだと聞かされていました。その前に一度、入ってみたいという衝動に駆られたのを思い出します。...
View Articleひがし茶屋街今昔③旧江戸屋
【ひがし茶屋街】今、ひがし茶屋街入り口に「はくひとつまみ」という小粋で“ちょっとつまめる”サイズ感で、新感覚の箔商品のお店があります。そこは、幕末、野々市田尻の出身で讃岐丸亀藩のお抱え力士の横雲八五郎が腕をいため引退、郷里で妻”てつ”と力をあわせて開いたという妓楼「江戸屋」でした。...
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