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ひがし茶屋街今昔「旧諸江屋」①

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【ひがし茶屋街】
一昨年の暮れOPENした「金澤しつらえ」は、ひがしで唯一の外装が総ベンガラ塗りで昔の雰囲気を残す建物ですが、文政3年(1820)の「浅野川茶屋町創立之図」を見ると、その敷地は、「越前屋又吉」「吉文字や“いそ”」にまたがっています。そして、今の建物は、藩政期末期から明治初期に建て替えられたものと思われます。


(諸江屋は、慶応3年(1867)の「東新地細見のれん」に、大のれん61軒の一つにあるのが初見。維新後は明治24年(1891)に発行された「金城三廓花の見立」に隣の江戸屋(横雲)と並んで「諸江屋」の屋号が記載されているそうです。)


(金澤しつらえ(旧諸江屋)柳が植え替えられています。)


現在は木造瓦葺2階建てですが、当初は石置きの板葺屋根で、外観は今と同じ茶屋町の特徴であるベンガラ塗りで、2階表に座敷と縁が設けられていて開放的です。店の間の表は、ベンガラ色のはめこみ式の木虫籠(きむすこ・出格子)で、“ひがし”の中でも極めて古い形式のようです。


(出格子の割付けは、1間(1,8m)の柱間に70本以上のタテ子(表面1,2cm)が入っている細かい格子が特徴、格子の断面が台形(裏面7mm)で内側が狭く表の見付幅が広いので、表から見た時、隙間が狭いうえに格子の表面が明るく、内側を見通すことはできませんが、内側からは外が見やすくなっています。)


(金澤しつらえの木虫籠(きむすこ・出格子))


諸江屋が、繁盛するのは明治の中頃、初代櫛田豊を経てその娘“きん”の時代、明治、大正、昭和の初めと言われています。当時、2階には、2人の名に因んだ”豊“と”きん“の「豊錦荘」の扁額があったといいます。



(総ベンガラ塗り)


“きん”は、実際には、芸妓の修業をしたことがない“ずぶの素人”ですが、ひがし茶屋街では非凡な女将であったと言われています。当時の粋客は、老舗の主人や経済界、政界の人たちで、宴会の二次会の多くは諸江屋で行われ、古くから県史の裏面を見るようだったと伝えられています。



(浅野川茶屋町創立之図・ピンクのところが旧諸江屋)


当然とはいえ芸妓の芸についてはかなり厳しいものあったといわれています。当時、金沢でも芝居が盛んで、金沢に来ていた長唄の三世松永和楓を“ひがし“の長唄に師として迎え、諸江屋の座敷が昼間、稽古場として使用されたといいます。


(三世松永和楓(1837~1916):もと清元叶太夫。松永家に入婿し,1880年3世和楓となる。大声美音で,その独特の節回しで好評を博したとか。)



(慶応の新地絵図の写し)


“きん“は、長唄だけでなく、踊りの師匠若柳吉蔵が迎へられ、浅野川河畔の御歩町の演舞場で、春の此花踊り、温習会が華やかな絵巻物を展開下といわれています。しかし大正12年(1923)9月関東大震災が起ったことから遠慮し秋の温習会が中止になり、それが切っ掛けで、温習会は行われなくなりますが、この時代”ひがし“は芸道に花が咲き画期的な時代であったといます。


(若柳吉蔵(1879~1944):本名は竹内幸太郎、2世若柳流家元。父が落語家で「ステテコ踊り」で一世風靡した初代三遊亭圓遊だとか。)



(今も残る土蔵に扉)


この諸江屋からは、常磐津の小照、踊りの好子ら名だたる芸妓が出ており、女将“きん”の並々ならぬ功績は大きく、他、“ひがし”にも粒ぞろいの名妓がいましたが、諸江屋の“きん”の世話にならなかった者いなかったといわれています。



(障子の入った2階・蛍屋の頃)

(大きな柳の蛍屋の頃)


(長らく店じまいをしていた旧諸江屋が平成14年(2002)に金沢の老舗料理屋浅田屋が、伝統的なお茶屋の造りを残しつつ、ガラスの廊下などの現代建築を融合させ、料金には奉仕料や席料などは一切なしの「螢屋」を開業させますが、平成26年(2014)3月に惜しまれつつ閉店しました。)


(つづく)


参考文献:「金沢の老舗」(名妓を生んだ諸江屋・大西喜三次著)北国出版社・昭和43年発行他


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