【大阪→金沢】
利家公は、慶長4年(1539)閏3月3日に63年の生涯を閉じますが、慶長4年3月21日、一時、小康状態を保っていた利家公は、長男肥前守利長宛に、妻まつに遺言状を口述で記させたと言われています。それによると、周到で思慮深く、実に堅実な戦国大名であったことが窺えます。
臨終に際し、妻まつが自ら縫った死装束の経帷子を身に着けることを拒んだといいます。“あと5年、秀頼様が天下を治めるのを見届けるまで”という思いが込み上げてくるのか、目を見開いて歯ぎしりし、傍らにあった脇差を鞘のまま胸に押し当て、2,3度うめいて絶命したといいます。
(「遺言状」の真偽について、「原本」が確認されていなことから、後世の者のデッチ上げだとする見方もありますが、文中、後に作為が加わったとするならば、都合の悪い個所として訂正されているはずなのに、人事など後に都合が悪くなるところや兄弟と言っても孫四郎ばかりと言って利常が書かれていないのが、そのまま残っていることから「遺言」としての価値を評する見方のほうが強いと言われています。)
(金沢城石川門)
以下は「遺言状」の要約です。
1、自分の遺骸は長持に入れて金沢まで運び野田山に埋葬するように。大坂にいる女衆も加賀へ下るように。
2、利政を金沢へ帰らせ金沢城の留守役に、利長、利政兄弟の下に兵力1万6千のうち8千を利長は率いて大坂に留まり秀頼様を守護せよ。利政は残る8千で金沢を守り上方で謀反が起これば利長に合流、金沢の留守居は篠原一孝に。
3、 利長・利政は兄弟仲良くするように。
(兄弟といっても孫四郎(利政)ばかりであるから・・・と書かれている。)
4、 隠居領の石川・河北・氷見郡は利長へ、能登口郡は利政へ。
5、 大判1000枚・脇指3腰・刀5腰を利政へ。その他はすべて利長に。
6、 利長は3年の間は加賀に下ってはならぬ。その間に事態も解決するであろう。
(慶長4年8月、徳川家康の勧めにより、利家の遺命に背き5ヶ月で金沢へ帰国。)
7、 合戦の際は必ず敵地に踏み込んで戦い、決して敵の侵入を許してはならぬ。右府公(信長)も そうであった。
8、 譜代の家臣を大切にせよ。20年ほど召抱えたら本座者(譜代同様)に扱ってよい。 新参者は主家が少しでも傾くと必ず裏切るものだ。
(新参は家の威勢のよいときは奉公するものだが少し傾くと自分の都合のよい方へかたよる。本座者は平常ぶつぶつ言っていてもいざというときは御家を大事に思い逃げるようなことはない。)
9、 武道ばかりではなく文武両道であるべきだ。
(文武二道の侍は少ないが分別のよいものだ。見たり聞いたりして探せ、新参にても情をかけて召し抱えさせた方がよい。)
(金沢城菱櫓)
10、長連龍と高山右近は大事にせよ。片山伊賀は謀反する可能性あり。 徳山五兵衛は自分の死後、必ず裏切る。山崎長徳は大勢の大将には向かない。
(片山伊賀は利家公の死後暗殺、徳山五兵衛は、関ヶ原の戦い直前に前田家を出奔し家康 に仕え、子孫が巡検使として金沢に入った記録があるらしい。)
11、村井長頼と奥村家福は前田家の年寄として待遇してほしい。
(祝い事などのときはこの両人家の老臣として取り扱うようにしたらよい。その上大事な合戦すなわち大坂出陣のようなことがあったときには兵士千人ほどあて預けておき身辺を守らせよ。)
(利家公を祀った卯辰八幡宮(現宇多須神社)
(今の前田家の菩提寺宝円寺)
利家は自分の死後に必ず騒乱が起こると予感して妻まつに書かせた見事な遺言状です。残念ながら、家康に謀られ利長は、遺言状の反し、すぐ加賀に帰りなど、また、片山伊賀や徳山五兵衛、そして、長連龍や高山右近、山崎長徳など人を見る目に凄さを感じます。
参考文献:「前田利家」童門冬二著、2002、株式会社小学館・・「殿様の通信簿」磯田道史著、2008、株式会社新潮社・「利家とまつの夫婦道」“遺言状妻や子の苦難に思いはせ死とも戦い続けた最期”北國新聞朝刊(2001/11/13付)・前田利家」ウィキペディアフリー百科事典・ブログ日本の百名城の旅前田利家その62『利家の遺言』他