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前田利家公④晩年

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【京→大阪→金沢】
利家公は、大男で派手好きの“かぶき者”で“バザラ者“であったとされていますが、晩年は温厚で、政治家、外交家として、経済家としてもすぐれ、家康とならび数学にめっぽう強かったと言われています。経営感覚が鋭く、いつも具足櫃にソロバンを入れ持ち歩いたらしく、今風にいうと財テクの名手だったそうです。



(金沢城)


(戦国時代の武将は、領国の支配や軍用金の調達に秀れた経済人としての側面ももっていたといいますが、特に利家公は、ソロバン勘定に長け、そのソロバンは現存する日本最古のものだそうで、入手時期は不明で、多分利家公50歳の後半頃と推定されるそうです。)



佐々成政との戦に際し、前田家には戦をするほどの兵の備えがありません。利家公は、普段、経費を切り詰めるあまり、家臣も極力雇わないようにしています。妻まつが以前から貯めた銭で家臣を集めておくように忠言していますが、貯めこむのに夢中で、命が危ないこの時まで度が過ぎた倹約をやめないので、妻まつの堪忍袋の緒が切れ「あなたが貯めた銭に武器を持たせて戦に連れて行ったら!?」といい銭を投げつけられたと伝え聞きます。


(こんな話もあります。金に困った伊達政宗などに、貯めた金銀を貸して親睦を計り、伊達政宗ほか細川忠興など7、8人の大名の金子借用書を跡継ぎに見せ、「自分の死後味方になった者には返済を免除せよ」と命じています。)



(金沢城の石垣)


≪利家公の戦歴≫
天正12年(1584)徳川家康は信長の2男信雄を立て、尾張の小牧長久手で秀吉と激突します。これと呼応して、家康側に付いた佐々成政が能登の末森城を攻め立てます。成政とは大名になってからも良きライバル関係で、利家公は2男利政を成政の養子に出す話しも進めていたそうですが、成政の攻撃で関係が崩れ、末森城では多くの成政軍に囲まれることになりました。




この時、妻まつの「大切な家臣を見殺しにするのか」と叱咤もあり、利家公は家臣の慎重論を退けてすぐに救援を送ります。利家軍は2,500人の手勢で14,500人の成政軍の背後を突いて末森城に入城します。反撃をあきらめて成政は越中に後退します。


成政は、上杉と利家公に挟まれて孤立し、天正13年(1585)に秀吉の出陣で降伏します。成政の領地換えに伴い、天正16年(1588)利家公は嫡男利長の領地と併せて加越能三カ国の太守に任命されます。


千秋主殿助範尚と末森の戦い
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11482199217.html



天正14年(1586)以降、利家公と妻まつは上洛し、秀吉の側近としての生活が多くなり、天正11年(1583)金沢城に入城以来、16年間の内、3年位しか金沢に在住していないと言われていますが、京都から金沢城と城下町の本格築城を指示していたといいます。

天正18年(1590)関東の北条氏を攻めには北部軍勢の総大将に任命され、徳川に次ぐ豊臣家臣団の筆頭として秀吉の信任を受け、後の朝鮮出兵の準備や陣立てでも秀吉を補佐しています。関白秀次を巡る武家派と奉行派の対立を教訓に慶長3年(1598)7月に五大老、五奉行制が敷かれ、利家公は従二位前権大納言に就任し秀吉が政務と子秀頼の補佐を家康と利家公に託されますが、その一ヶ月後に太閤秀吉は世を去りました。



太閤秀吉が没した翌年の慶長4年(1599)、利家公は秀吉の遺言に従い、幼い秀頼を伴って大阪城へ入城します。長男利長、二男利政も入り、利家公は病気を押して、前田家総力で秀頼を助ける体制を敷きます。


伏見城の家康に約定違反が見え、五奉行から利家公が担ぎ出され緊張が走ります。利家公が伏見城に赴き秀吉の言葉「私の死後、法度に背く者があれば単身で当事者を訪ねて意見せよ。それで斬られるのは私に殉じることと同じ忠義の現れである」に従い、家康に斬らせて、討伐の大義名分を得ようとしますが、家康は誘いに乗らず、譲歩を重ねて和解に応じたといいます。


それから一ヶ月後、利家公の病状は重くなり、今度は家康が利家公を見舞います。この時、利家公は長男利長に「心得ているな」と念を押すと、利長は「もてなしの準備は整っています」と応えたといいます。利家公は、家康に後事を託し、家康が帰ると利家は布団の中から刀を取り出し、差し違えてでも家康を斬るつもりだったことを利長に告げたといいます。



そして、機を読みとれなかった息子に「お前に器量が有れば家康を生かして帰しはしなかったのに・・・」と嘆いたと伝えられています。


慶長4年(1599)閏(うるう)3月3日病死。晩年は老練、温厚で人望厚く、領内では優れた治績を残し、加賀藩の基礎をつくりました。



参考文献:「前田利家」童門冬二著、2002、株式会社小学館・・「殿様の通信簿」磯田道史著、2008、株式会社新潮社・「前田利家」ウィキペディアフリー百科事典他


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