【安土→七尾→金沢】
前田又左衛門利家公の初陣は16歳の天文21年(1552)信長の尾張統一戦のひとつ尾張海津(萱津)の戦でした。その時、敵の首級をあげ「肝に毛のはえた奴だ」と信長を驚かせたといわれています。利家合戦年表によると文禄元年(1592)の肥後名護屋の出陣まで40年間、生涯60近くの戦いに参戦します。
(金沢城の橋爪門)
出陣の半分は信長の覇権争いに従軍しますが、信長の評価はあくまでも「槍の又左衛門」として武勇の者で、必ずしも信長が目的とする天下布武という大事業には、知識、能力には及ばないのでは思っていたのか、前回にも書いた柴田勝家の与力として北陸の押さえに配置されます。
(又左衛門は、この北陸への配置には、終始一貫して不満感が消えなかったと言われていますが、信長の「本能寺の変」での死後、信長のことを多くの人が忘れてしまっていたにもかかわらず、一本気な又左衛門は義理堅く、終生、その偉大さを熱を込めて語ったと言われています。)
(前田利家公)
≪前田又左衛門利家公の戦歴≫
天正4年(1576)になると信長は安土城の普請を始め、城内には又左衛門邸も建設されたといいますが、翌年「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」という落首で知られる手取川の合戦に参戦します。柴田勝家率いる織田軍(信長は参戦していない)は全軍が手取川の渡河を終えたところで上杉軍が七尾城落城させ松任城入城を知ります。
勝家は即座に撤退を命ずるが、謙信直率の上杉軍に追撃され、織田軍が1000人余りの戦死傷者と増水した手取川で多数の溺死者を出す大敗を喫します。織田軍の撤退で上杉軍は加賀南部から越前まで上杉軍が勢力をのばしますが、天正6年(1578)に上杉謙信が歿し、北からの脅威は除かれます。
(小丸山城)
天正8年(1580)には、11年に及んだ石山本願寺との合戦が終り、講和が成立しますが、加賀の一向一揆は反抗、柴田勝家がこれを制圧し金沢御堂も陥落し、勝家の甥、佐久間盛政が金沢御堂(金沢城)に入城します。この間、又左衛門は羽柴秀吉の中国征伐に加わります。しかし謙信の死後、能登は戦乱となりますが、天正9年(1581)には織田方の支配になり、又左衛門に与えられことになります。始めて一国を領有した又左衛門は、不便な山城七尾城を廃し港に近く、軍事的優位な小丸山に城を築きます。
(天正11年(1583)利家公が金沢に構えると、兄安勝(利昌の3男)に小丸山城と親の菩提寺の長齢寺を任せることで兄を立てています。元和元年(1615)の「一国一城令」で小丸山城が廃城になります。)
天正10年(1582)6月2日「本能寺の変」で信長が倒れ、その死によって能登は不穏に包まれ、又左衛門は、金沢城主佐久間盛政の援軍を得て、能登一国の存亡をかけて石動山(天平寺)の僧兵を攻略します。
(復原された金沢城)
天正11年(1583)信長の後継者をめぐって柴田勝家と羽柴秀吉が賤ケ岳で戦い秀吉の攻撃で勝家の甥佐久間盛攻の撤退に際し柴田軍についていた利家は突然退却して、柴田軍は総崩れとなり、賤ケ岳の戦では、又左衛門が戦場で中立的立場をとり、やがて佐久間盛政の金沢城を攻め秀吉はその功を認めます。戦後、秀吉は又左衛門にこれまでの領国能登に加え、北加賀二郡を与え、金沢城主に任じました。
(素早く秀吉軍についたことは、裏切りですが、それがあまり強調されないのは、勝家との府中城での和解もありますが、後に又左衛門が大成した事が多きく、今では又左衛門の先見性を示すものとされ、その後の前田家の「世渡り上手」が予感できる出来事のように思われます。)
(つづく)
参考文献:「前田利家」童門冬二著、2002、株式会社小学館・・「殿様の通信簿」磯田道史著、2008、株式会社新潮社・「前田利家」ウィキペディアフリー百科事典他