【尾張→岐阜→越前府中】
帰参には、勝家や藤吉郎の後押しもあり許された又左衛門ですが、召し放され人生のどん底を味わったことから、後に「人間は不遇になった時、友情のなんたるかを知るものだ。」といっています。そして、2年間の浪人暮らしから多くのことを学びます。「落ちぶれているときは平素親しくしていた者も声をかけてくれない。だからこそ、そのような時に声をかけてくれる者こそ真の友人だ!!」と言っています。
(拾世弥斬殺事件では、成敗は避けられなかったのを取りなした命の大恩人の2人、おやじ様の柴田勝家と汚名を返上に力を貸した森可成、そして猿と呼び犬と呼び合った竹馬の友の木下藤吉郎が真の友人だったのでしょう。)
≪前田利家公語録≫
「人間は不遇になった時、友情のなんたるかを知るものだ。」
「戦場に出ては、我が思うようにして、人の言うことを聞き入れぬが良し。」
「武門とは信義の番兵であり、人の生涯は心に富を備える為にある。」
「ともかくお金を持てば、人も世の中も恐ろしく思わぬものだ、
逆に一文無しになれば世の中も恐ろしいものだ。」
又左衛門は、永禄12年(1568)信長の命で前田家の4男でありながら長男利久に代わり家督を継ぎます。その時、又左衛門は、後継ぎの無かった利久に養子を取って家督を継がせたいと願い出ますが、信長が許すことなく、結果、宗家の旧禄2,000貫(5,000石)を合わせて2,450貫(6,125石)を知行し、荒子衆を家臣団に抱えます。又左衛門は上の兄たちと争うことを嫌い、夫婦共に気配りを絶やさなかったといいます。
元亀元年(1570)信長は大阪の石山本願寺と11年に及ぶ石山合戦が始まりました。又左衛門は春日井堤の戦いで2番手となり奮戦。天正3年(1575)には、織田・徳川連合軍は武田勝頼の騎馬軍団と三河長篠で戦い、又左衛門は鉄砲隊に加わり、威力を示し追撃戦では、敵将弓削左衛門と太刀打ちして深傷を負いますが、家臣の村井長頼がこれを救い、弓削の首級を挙げます。
(本封敘考より)
天正3年(1575)信長は越前の一向一揆を鎮圧のため大軍が送り込まれ、又左衛門も従軍し越前を制圧します。その後、信長は越前の8郡75万石を柴田勝家に与え、北ノ庄城主に命じます。又左衛門及び佐々成政、不破光治には越前府中10万石を3万3千3百石均等に与え、府中三人衆として勝家の補佐、監視役を担うことになります。又左衛門は、はじめて大名になりますが、この人事は、その後、長らく敬遠人事として本体から外された感が強く不満に思っていたそうです。
(佐々成政が築城した小丸城の城跡より「前田又左衛門どのが捕らえた一向宗千人ばかりをはりつけ、釜茹でに処した。」と刻み込まれた瓦の破片が昭和7年(1932)に出土されます。一揆の生き残りが小丸城の普請で隙をみて彫りつけたものと推測されます。一揆仲間の無念の証であるとともに、又左衛門の戦国時代における残虐さを今に伝えています。)
(佐々成政)
府中三人衆は、不破光治が龍門寺城、佐々成政が小丸城、前田利家が府中城を居城としますが、当初はそれぞれの支配領域は明確ではなく、総計10万石の知行を相給されていたと見られています。天正4年(1576)5月から7月の間に所領割りが行われ、三人衆はそれぞれの所領と与力を持つようになったと思われます。所領は、利家が丹生郡大井村、今立郡真柄村、南条郡杣山・宅良谷・河野浦など、成政が丹生郡織田平等村、今立郡大滝村・岩本村、南条郡湯尾などが推定されますが、光治については明らかではありません。
三人衆の任務は、越前の大半を任された柴田勝家の目付でしたが、その後、加賀一向一揆や上杉謙信との戦いで、勝家の与力としての性格が強まっていきます。しかし、勝家の指揮下に固定されたわけではなく、天正6年(1578)に荒木村重が反逆した際、その居城の有岡城の戦いには、3人そろって勝家から切り離されて駆り出されています。
(柴田勝家)
その頃、たびたび起こる一揆を鎮めながら迎えた天正5年(1577)、反織田包囲網の一角である上杉謙信が加賀に攻め入り、信長は勝家や秀吉を主力とする軍勢を加賀に派遣します。当然、府中三人衆も従軍しますが、一向一揆と結んで七尾城、松任城を落とし、破竹の勢いで西進する上杉軍を抑えきれず、一敗地にまみれますが、翌年謙信が病没したため、加賀方面の脅威は取り除かれます。
佐々成政は天正8年(1580)、神保長住を助成して越中国を平定し、翌年には越中半国を与えられ、さらにその翌年には神保長住が失脚して越中を一国支配することになり、又左衛門も加賀国や能登国の平定戦に従軍し、その後、天正9年(1581)に能登一国支配を任されます。不破光治は天正8年(1580)に死去し、これらにより、府中三人衆としての活動は実質的に終了します。
(つづく)
参考文献:「前田利家」童門冬二著、2002、株式会社小学館・「前田利家」ウィキペディアフリー百科事典・「本封叙次考巻之上」藩臣冨田景周謹編他