【尾張・荒子→金沢】
前田利家公について聞かれたので、確か書いているはずだと思い拙ブログを検索すると、関連記事は多いのですが、いの一番に書くべき利家公がありません。ブログはその時その場の思いつきで書いているので大切な人が抜けていました。書かれている関連の記事には藩祖利家公とか初代利家公とまちまちで、何とも締まらないものでした。慌ててそこから勉強のやり直しです。
(金沢城)
(藩政期の書物等に利家公は、「藩主(藩祖)」などとは書かれていなくて「大納言様」「国祖」と書かれているそうです。「藩祖」とか「初代」という通説は少なくとも明治後期から昭和初期あたりにおいて、加賀前田家初代当主(国祖)である利家公を「藩祖=初代藩主」とする考え方が定着しはじめたようです。「国史大辞典(1992)」など全国区の権威ある辞書類によると、利長公を「第二代金沢藩主。藩祖前田利家の嫡男」というのが通例のようです。しかし、徳川大名を「藩」とするようになるのは、藩政中期以降に儒学者らが言うようになります。そこでは「加賀藩初代藩主・前田利家公」のように、他藩では事例が無い織豊大名を「初代藩主」とはせず、「藩」とするようになってからにすべきだという学問的な主張から大阪夏の陣以降慶長19年(1614)9月16日の時点で「加賀藩成立」とすれば「加賀前田家家祖利家公」、「藩祖利長公」、「初代藩主利常公」とすべきだということになりますが、一般的には「国史大辞典」にある利長公は「藩祖の嫡男」という面から見れば、利家公は「藩祖」であり「初代」と言えるので・・・・・・?)
(前田速念寺のパンフレットより)
前田利家公は天文6年(1537)、尾張国海東郡荒子村(名古屋市中川区荒子町)で土豪・前田利春の四男として生まれました。幼名は犬千代、元服して孫四郎利家と名乗り、結婚後は又左衛門利家と言いました。天文20年(1551)の14歳(15歳とも)の時、3歳年上の織田信長の小姓として仕え50貫(125石)を拝領します。
(一説には、前田利家公の出生は、本家筋、尾張国海東郡前田村(名古屋市中村区前田西町)の梅廼寺前田速念寺、当時の前田城で生まれ、その後荒子に移ったとするのが、速念寺の寺伝にあります。利家公の出生は天文6又は7年といわれていますが、その頃荒子城(前田城の出城)が在ったかは疑問で、利家公の身辺護衛に荒子衆(本座者)が当っていたので、荒子出身と言われたらしい。)
若い頃の利家公は喧嘩好きの「かぶき者」として有名で、「又左の槍」と呼ばれる長槍(3間半柄)で人々におそれられていましたが、一本気で裏表のない性格で信長にかわいがられた。弘冶2年(1556)には稲生の役の槍働きが認められ本禄と合わせ150貫(375石)を賜ります。
(この頃、信長とは衆道の関係にあったことが加賀藩の資料「亜相公御夜話」に、「鶴の汁の話(信長に若い頃は愛人であったことを武功の宴会で披露され皆に羨ましがられた時の逸話)」として残っています。衆道は同性愛(男色)と言われていますが、今のホモセクシュアルとは、かなり違い、当時、若衆道といい武士の間でよくあったそうです。記録が少ないらしいが利家公の「亜相公御夜話」に書かれているそうです。)
(初陣図・中川区区役所パンフレットより)
永禄元年(1558)には、12歳の「まつ」と結婚。花嫁は容姿端麗、快活で社交的、おまけに読み書き、そろばん、和歌、武芸などを嗜む才色兼備の女性でした。「まつ」は、天文16年(1547)尾張国海東郡に生まれで母が又左衛門(利家公)の生母長齢院の姉で、利家とは従兄妹同士で、父の死で前田家で養育されていました。
「まつ」との結婚の翌永禄元年(1558)、又左衛門(利家公)は無礼をはたらいた信長の同房衆拾世弥を切り捨てたため、信長の逆りんに触れ織田軍から勘当され、又左衛門(利家公)は流浪生活を余儀なくされます。単独で馳せ参じた桶狭間の合戦での命懸けの奮戦も空しく、ようやく許され織田家への帰参を果 たしたのは、2年後の永禄4年(1561)の斉藤龍興との森部の役でした。
(拾世弥は、常々、信長配下の武将に対して横柄な態度が多く、又左衛門(利家公)の佩刀の笄(妻のまつからもらった笄で、まつの実父の形見であるという)を盗む。又左は拾阿弥を斬り捨てようとしまが信長の手前もあり許可を得てから成敗しようとします。とりなす者がいて拾阿弥はひたすらあやまったといいます。やがて信長の耳にも入り、信長からも大目に見てやるよう諭され、又左衛門(利家公)はしぶしぶながらも許しますが、拾阿弥は増長したのか「人に物を盗まれるような男が、かぶき者とは片腹痛い」等々と大口を叩くもだから、又左は腹に据えかね斬殺、それを信長に見られてしまいます。)
森部の役も無断参戦して、斎藤家重臣日比野下野守の家来で「頸取あだち」の異名を持つ足立六兵衛という豪傑を討ち取り、足立以外にも首級1つを挙げ、2つの首級を持参して信長の面前に出ると戦功が認められ、信長から300貫が加増されて450貫文(1,315石)となり、ようやく帰参を許されます。
(つづく)
参考文献:「本封叙次考巻之上」藩臣冨田景周謹編・前田速念寺の資料他
高岡市立博物館 学芸ノート 【第11回】 加賀藩主の数え方.等