【藩政期の日本】
金一両(小判)は、藩政期の金沢の町人や農民には、アメリカのドルかヨーロッパのユーロのような外国貨幣のようなものでした。金沢は大阪圏内だから銀使いで銀貨や銭に藩札が使われ金貨の流通がなく、江戸での勤務の有る一部の武士以外は一両を見ることもなかったといいます。しかし、金がすべての通貨の基本になっていて、公定相場では金一両が銀60匁、銭で言うと4000文(4貫文)ということになっていて、これが、また厄介な変動相場です。金一両が銀100匁になったり、銭が6500文になったり、凶作になれば時には10,000文以上になったりしますが、それでも、江戸時代はすべて金一両が基準です。
(金沢城)
しかし、それは、今のように国際相場ではないので、幕府の裁量でどうにでもなり、江戸の初期、慶長の頃の金一両(金貨)は、金の量が8,6割、銀1,4割、重さは17gで、元禄になると重さはやや同じでも金の量が5,6割、銀4,4割と品位を下げています。
(慶長小判と元禄小判の比較)
(単純に言うと慶長小判を2枚鋳つぶして、銀で薄め3枚の元禄小判を作ったのです。そのため幕府は、その頃、1年間の歳入70万両(七百億円)でしたが、この改鋳で金銀合わせて5百数10万両(五千数百億円)に達したといいます。その差額は出目といい、お蔭で一挙に8年分近い収入を得ました。)
その頃、あの有名な幕府の学者新井白石は、それを贋金といって散々非難し、それが米の値段が上がった原因だと言い降らします。しかし米価の値上がりの実態は、そのためではなく凶作が原因だったといいます。
(今でも皆さんがよく分らないことを、偉い人が「こうやぞ!?」というとコロッと騙される!多くの人はよくわらないので、権威がありそうな人が大声を出すと信じてしまうことがあります。・・・)
(瓦礫でも政府の判子を押せば、金になる!)
この金一両(小判)の改鋳を実行したのは、新井白石のライバルで荻原重秀という元禄時代の幕府の勘定奉行です。重秀は「貨幣は国家が造るもの、たとえ瓦礫であっても行うべし」と言っています。分り易く言うと名目貨幣で”瓦礫でも政府が判子を押せば、お金になる”といって実行したのです。事あるごとに重秀は白石に非難されています。
しかし、結果として、荻原重秀という人が、今の世界の貨幣制度、お金を金交換(兌換)の裏づけのない銀行券のようにした世界で最初の人でした。
(ちなみにドイツ人学者クナップがその事に気付き、オーストリア政府が不換紙幣を発行したのは、明治の2年前の慶応2年(1866)ですから、鉱物資源の金や銀が取れなくなったため瓢箪から駒のようですが、世界に先駆けて素材価値と額面価値を切り離して名目貨幣にしたのは、日本人が最初だと言うことです。それも(世界より200年近くも前)のことです。)
戦前は紙の1円札の裏付けとしてお札は“兌換券“で“金”と交換できますと書いてあったそうです。そしてイギリスの経済学者ケインズが戦後、国際通貨基金(IMF)を設立し、世界中が名目貨幣になりますが、それでも、その基金の最大の拠出国アメリカのドルだけは、兌換券で、金本位制でしたが、アメリカが金本位を離脱したのは、今から40年ほど前の昭和46年(1971)でした。
(現在、日本の国際通貨基金(IMF)への拠出額は10兆円(1000億ドル)で国家予算の10分の1弱)
日本の凄いのは今から300年以上も前の元禄時代、もう今のように素材価値と額面価値を切り離していたのに驚きます。ですから幕末でも、世界のお金は、金とか銀、銅の重さで決められていました。日本が、世界で1番進んでいたのですが、それが、後々で問題を起こします。
(藩政期の初期の日本は銀なども輸出するぐらい豊富に有りました。しかし、段々と、金や銀などの鉱物資源が枯渇してきて、量では充分に賄えなくなって、金の量を減らして、幕府の判子を押し実施します。)
信用があれば、紙にお札を印刷して使っても問題は無いということ、但し、大切なのは“信用”で信用が無ければ成り立たないわけです・・・・。信用があれば「貨幣は国家が造るもの、たとえ瓦礫であっても行うべし」でも国内では十分通用しました。
しかし、これは日本国内だけの話で、日米修好通商条約の際に、その事を忘れてしまっていた幕府が、条約交渉で、とんでもないミスを犯して、日本の金が外国に流失してしまうとい最悪に事態に直面してしまいます。
(つづく)
参考文献:「大君の通貨―幕末「円ドル」戦争」昭和59年(1984)4月・(株)講談社「勘定奉行荻原重秀の生涯」村井淳志著・平成19年(2007)3月・(株)集英社など