【藩政期の日本】
幕府の崩壊を早めたのは、坂本竜馬や勤皇の志士でも、薩長連合ではなく、日米修好通商条約でありハリスであるといっても言い過ぎでは無いといわれています。日米修好通商条約は、アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったことなどから、不平等条約といわれていますが、もっとも不平等だったのは為替レートだったことはあまり伝えられていません。
(藩政期の三貨制度の体系図)
(日米修好通商条約第5条では、外国通貨と日本通貨は同種・同量で通用する。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる等となっています。)
(金一両はメキシコドル4枚、ハリスは同種同量を主張し、一分銀3枚=メキシコドル)
日本が諸外国との貿易開始に際して、貨幣の交換比率は銀貨を基準に定められました。当時の日本の金銀比価は金1に対し銀4.65で、諸外国の相場(金1対銀15.3)に比べて銀の価値が高く、物価は金貨基準では諸外国と同等でしたが、銀貨基準では格段に安かったのです。そのため幕府は金貨基準で貨幣の交換を主張しますが、アメリカ領事ハリスは銀貨基準の交換を主張して押し切り、やがて金の流出やインフレによる経済の混乱を引き起こすこととなります。
(そのハリスのミスリードにより、物の値段が徐々に上がりだします。しかし、人々は物価の高騰の原因は地震や凶作やそれに当て込んだ米屋の買占めで高騰しているのだと思っていたのですが、何時までたっても下げ止まりませんでした。)
人々は、漠然とですが、何やらアメリカとの日米修好通商条約が怪しい、原因はもしかすると、それかも知れないと思い始めますが、それではいったい、どうなっているのか、さっぱり原因が分からないままに、関東では“打ちこわし”や”一揆“が、挙句の果てには”えいじゃないか”と踊り出したり、幕府と長州・薩摩の戦争になったり、日本の金貨が海外に流失して、日本が最悪の事態に陥ります。
(最終的には、安政6年(1859)の物価を100とすると、慶応3年(1869)の10年間で物価は約3倍。人件費は1,5倍になっていました。そして、金貨の改鋳で出目を稼いでいた幕府の埋蔵金も底をついてしまいます。)
その要因の一つは、日本はすでに名目貨幣になっていたのに、世界の通貨はまだ鉱物の重さで決められていて、日米修好通商条約の条項にも「内外の貨幣は同種同量による通用」と書き込まれているのに、幕府の役人は日本と諸外国の通貨のシステムの違いを見落としていて、やがて日本が名目貨幣で諸外国は鉱物の秤量貨幣であることに気付き、何度も交渉しますがアメリカ領事ハリスには聞いて貰えず、ハリスに強引に押し切れて、調印したことが原因でした。
≪ハリス大儲け、せっせとアメリカへ送金≫
アメリカ領事ハリスは、当時の年棒が5,000ドルでしたが、アメリカへの送金は6,000ドル、ハリスの小判利殖で2,500ドル、外国為替相場で2,500ドル、年間で8,500ドルも蓄えたといわれています。
(当時の1ドルは今の100ドル、サラリーマンの平均的な年収は5~700ドルだとか・・・)
(小判の改鋳の歴史)
為替レートは、鉱物資源から見ても、金一両は、貿易通貨の銀貨メキシコドル4ドルと等価です。その頃の日本では銀貨は名目貨幣一分銀4枚で金一両という事になっていました。しかし一分銀は銀貨で、重さでいうと銀8gしかありません。しかし当時世界は銀貨基準ですので、メキシコドル1ドル銀の量が銀23g~24gですから一分銀3枚で24g、あと一分銀を足せば四分銀になり、金一両になるという計算です。
(安政小判(金一両)は、金と銀の合金(当時に世界は金1対銀15,3)なので銀換算すると約85,6g。メキシコドルは銀貨で23g~24gですから実際には4ドルと等価ですが、名目貨幣というシステムを知らない諸外国にしてみれば、名目貨幣の一分銀(8g)4枚が金一両ですから外人は大儲け、そして日本は大損するのです。)
金の海外流失については、幕府の役人より日本の商人の方が一枚も二枚も上で、小判を退蔵して、金庫にしまいこんでいたといいます。勿論一般的の家庭では小判一枚で1ヶ月生活できる高額貨幣で、商人は退蔵して消えていたので、あまり出回っていなかったそうですが、「一分銀6枚」だったらOKという商人もいたといいます。小判一枚、銀六分だと、日本の商人は二分の儲けになり、それでも外人にしてみれば上海に行き売れば2倍の儲けになったといいます。
(当時の金銀比価は金1対銀4.65で、諸外国の相場は金1対銀15,3です。)
(つづく)
参考文献:「大君の通貨―幕末「円ドル」戦争」昭和59年(1984)4月・(株)講談社「勘定奉行荻原重秀の生涯」村井淳志著・平成19年(2007)3月・(株)集英社など