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藩政期の一両が1円になるまで・・・④

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【藩政期の日本】
少しややこしくなってきましたので、振り返りながら話を進めます。硬くなりますが、まずはこの話の基、日本の計数貨幣(名目貨幣)と秤量貨幣について触れます。鉱物資源の枯渇と幕府の財政難から元禄時代に貨幣改鋳で出目益も当て込み、幕府の勘定奉行荻原重秀が金貨の部計数貨幣(名目貨幣)を実行します。


計数貨幣(名目貨幣)は、貨幣の素材価値とは関係なく、政府やIMLの保証のもと、法律などによって表示してある額面価値で通用する貨幣です。今では世界のほとんどの国で採用されています。

秤量貨幣は、使用に際して交換価値を品位・量目を計って使い、長い使用や所有、保管に耐え変化しにくい金・銀・銅などを加工、もしくは素のままに使用するもので、鋳造精錬した金属には打刻したものや、金などは砂金のままのものもあります。流通が簡単ですが、品位に不安があります。




その後、計数貨幣(名目貨幣)は江戸時代中期になると、天才的政治家で知られる田沼意次が命じ作らせた「五匁銀」に繋がっていきます。五匁銀12枚(60匁)金一両ですが、当時は相場制です。幕府は銀貨の計数貨幣化を図ろうとする狙いがあり、金貨と銀貨の為替レートの固定を狙って明和2年(1765)9月に発行されます。



(五匁銀)


しかし、相場制ですから金一両の交換比率は、当時、銀62匁が相場で実勢にそぐわなく額面で60匁に固定された五匁銀は敬遠されます。さらに金貨(計数貨幣)と銀貨(秤量貨幣)の為替差益が儲けの両替商から額面が固定される五匁銀では、為替手数料、銀貨の秤量手数料などの収入が得られず、さらに5匁(約19g・今の5円玉5枚分)と重く硯箱と揶揄されるくらいで流通不便貨幣といわれほとんど流通しないまま回収されます。




それでも諦めないのが田沼意次。五匁銀が普及しなかった反省から、銀純度を上げ、額面の代わりに「8枚で小判1両に換える」と表記し発行したのが「明和南鐐二朱銀」です。しかし、両替商にとって「南鐐二朱銀」の発行も死活問題から抵抗は激しく、しかも、南鐐二朱銀一両分(8枚)の純銀量が21匁6分であるのに対し、丁銀は一両を60匁として、27匁6分の純銀量であったことから、実質を重視する商人にとって名目貨幣は受け入れ難く、含有銀量で取引しようします。しかし幕府は、京都、大坂においては、多少言い分は認めたものの二朱銀通用を半ば強制します。



(南鐐二朱銀)


さらに文政7年(1824)には量目を減少させ、文政南鐐二朱銀を発行します。銀貨の計数貨幣が定着し、その後、日米修好通商条約の主役、天保8年(1837)発行の天保一分銀(8g)や安政6年(1859)発行の安政一分銀(8g)へ繋がっていきます。


(文政南鐐二朱銀発行に際し、幕府の出した触書は流通の便宜を図るため小型化したという名目で、真の狙いは財政再建が目的の出目稼だったのです。)

「8枚で小判1両に換える」と表記し発行)


計数貨幣(名目貨幣)は幕府に利益をもたらすもので、慢性的な財政難に悩む幕府にとっては、もはや計数貨幣(名目貨幣)の発行は止まらなかったわけです。しかしこれは国内だけで通用する政策で、当時まだ世界には馴染まず、前にも書きましたが開国時の金流出の原因になります。


(客観的に見れば、当時は全国の金山、銀山を幕府の支配で金座、銀座だけが金銀の取り扱いができる体制の下であるからこそ計数貨幣(名目貨幣)の発行が出来たということになります。)



(金山や銀山は幕府の支配)


しかし、元禄の荻原重秀や明和に田沼意次は、何れも悪評が付きまといますが、2人を一緒にするのは無茶苦茶の話になりますが、強いて共通点を上げるとすれば、荻原重秀は新井白石、田沼意次は松平定信というライバルの抵抗に振り回されながらの奮闘した天才肌の開明的政治家あったと言えます。


(つづく)


参考文献:「大君の通貨―幕末「円ドル」戦争」昭和59年(1984)4月・(株)講談社「勘定奉行荻原重秀の生涯」村井淳志著・平成19年(2007)3月・(株)集英社など


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