【野町広小路→千日町】
全国的に珍しい「迷い子石」は、昔、江戸市中にも人が集まる繁華なところ日本橋の路傍に設けられ、探す人の目に付きやすくしていたようです。一説には、全てでは無いとしても飢饉などで困った親が人目に付き易いところに捨て子とし置き去りしたともいわれていて民族研究の貴重な資料だそうです。
この碑は、昭和13年(1938)に金沢の近弥二郎氏が、江戸末期の刊行された摺りものに、迷子い石として絵に描かれ「野町神明社内」と書き添えたものがあり、(昔、見たことがあります。)神明社内を隈なく探したが見つからなかったそうですが、付近も含めて根気よく捜したところ雨宝院境内に発見されたものだといいます。
昭和24年(1949)4月に千日山雨宝院で発行された「雨宝院寺報」には、竪町の沖嘉吉氏(昔カーテン屋?)の話として、沖家の祖先が飢饉のとき碑を建て親に見捨てられた子供達を集めて、食事を施したと記されているそうです。そういえば、訳ありで生まれて間もなく、この雨宝院で育ったという室生犀星も同じく見捨てられた子で何か因縁めいたものを感じます。
表 まよひ子 こゝへも来へし
こゝへたづぬへし
裏 維時文政十年孟夏建之
(右) 継合す卯月の衣の契哉 八十六歳梢波
(左) かくれしを出されとてのみめぐみに
神楽を奉(ほう)し給ふかみがみ 西南宮
維時(今の時)文政十年(1827)卯月(旧暦4月、卯の花月)孟夏(初夏)
(西南宮鶏馬:江戸時代後期の狂歌師。加賀金沢の人。大田南畝(なんぽ)蜀山人(しょくさんじん)などと親交があり、門人も多かったといいます。編著に天保11年(1840)刊の「夷曲(いきょく)歌集百人一首」。通称は瀬波屋犀輔(せなみや-さいすけ)。別号に東北斎飲居,暖雪楼など。)
(雨宝院門前と境内)
雨宝院は、千日町の由来になった高野山真言宗のお寺です。起源が700年代に遡り、白山を開山した泰澄大師が開いたとされています。その後、歴史の出てくるのは、400年位前、無住の寺に雄勢和尚が諸行脚ののち京の清水寺の大悲殿の37日間参詣し、伊勢神宮の「千日の参詣をせよ」との霊告を受けると、天照大神が現われ光を放ち「加賀の国犀川の南辺りの金剛三昧耶形(さんまいうやきょう)の霊地とあり、昔、泰澄が地蔵を刻み、安置して祀ったが、今、まさに絶えんとしている。その地において、堂宇を再興し、我を護り衆生を救済すべし。」と伝えたといいます。
(三昧耶とはサンスクリットで「約束」、「契約」などを意味するサマヤ(samaya)から転じた言葉だそうです。)
(犀川大橋より雨宝院)
文禄2年(1593)8月、雄勢和尚は堂宇を再興し、さらに雄勢和尚は泉野原で伊勢大神にむかい5000日の修行、慶安2年(1649)空海と同じ3月21日96歳で入定。人々はこの地を千日塚と称しました。千日参詣の願いを成就した人々が記念に石碑を同所に建立したといいます。千日塚は有松当たりにあったといいますが、今はありません。なお、千日町という地名は千日山宝雨院に因むといわれています。須弥壇には、室町時代のもといわれる十一面観音が祀られ、金比羅さん、そして、室生家の位牌も祀られています。
室生犀星は生後1週間ほどでこのお寺に来て、やがて住職の養子になり20歳になるまでこの寺で過ごします。大正時代の洪水で流失しますが、昭和22年(1947)以降犀星らの寄付で復旧します。犀川大橋両岸を描く板絵彩色犀川宝雨院図扁額があります。
室生犀星の俳句
夏の日に 匹婦の腹に 生まれける 犀星
(広坂の文学館に有ります。)
≪門前の六地蔵≫
六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものであります。六地蔵の個々の名称については一定していなく、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もあります。像容は合掌のほか、蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていません。
(日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られています。中尊寺金色堂には、藤原清衡・基衡・秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに6体の地蔵像が安置されているますが、各像の姿はほとんど同一であるそうです。)
他に、雨宝院には10の願いをかなえてくれるという「子安地蔵尊」や「延命地蔵菩薩尊」があります。
(雨宝院の「西行塚」については所縁がよく分かりませんのでご存知も方は投稿頂ければ幸いです。)
●雨宝院の室生犀星記念室は有料。