【金沢市内】
マラソン!!戦後、私の少年期、ボストンマラソン優勝の山田敬蔵選手は、水泳の古橋広之進、プロレスの力道山に次いで、あのアメリカをブチ負かした英雄でした。昭和28年(1953)4月、当時の世界最高記録2時間18分51秒は、地方の新聞にも大きく取り上げられ、瞬く間にマラソンが有名になり、マラトンの伝説や42,195km(よんじゅうにい・いちきゅうごkm)と共に“マラソン”は少年にとって夢の代名詞になっていました。
熱狂の金沢マラソンに、水を指すようですが、昔のことを今から少しだけ綴ります。これも老い先短い証拠でしょうが、熱狂の様子と臨場感は新聞や若者のブログ、facebookにお任せして、“言わなきゃ分からん”という私の勝手な思い込みに、心優しい読者の“しょうがないな~”を期待してもう少し書きますので、お付き合い頂ければ幸いです。
5~6年前でしたか、山野氏が市長選の公約に金沢マラソンを提唱されました。何んじゃそりゃ?と面食らっていたのがついこの間のようです。田舎者ですから、当時、新幹線は実感がなく、マラソンに対して、昔、インプットされた強烈なイメージがあるばかりに、何年も続いている地元のロードレースの延長線上でしか想像が出来なくて、今回、半分以上の方が県外からお見えになり、テレビや新聞でしか見ていないので、これが”金沢マラソン“やったんやという実感もないのに何か感動を覚えています。
テレビから伝えられる沿道での市民の応援風景、曇天で何時雨が降りだすか分からない天候の中、ボランティアの笑顔がランナーの踏ん張りや勇気につながっているように見えました。金沢伝統の公民館や婦人会の一寸義理を嚙ました動員も、そんな感じが微塵も伺えない応援とお世話する様子に金沢のおもてなし力に凄さを感じました。
そういえば、今はどうか知りませんが、中学や高校での応援の練習がダブります。相撲や野球の応援のための練習は、かなり強引で強制を伴う動員でした。人にもよりますが、嫌々の参加でしたが、やがて本番になると、自ら参加しているような雰囲気になり、気分は、その錯覚に酔いしれていました。今回の応援も金沢のそんな伝統が下敷きにあるようにも思います。
(幕末、卯辰山の開拓にあたり、市民には隣保制度による動員が掛り、土木工事だけでなく、盛大に行われた盆正月(まつり)では町々は獅子舞や出し物、俄などを興じさせられ、それが、やがて主体的な活動のように振舞ったといわれていますが、金沢人には、昔から強制が、やがて主体的になる不思議な伝統があるのでしょうか?)
前に書いた金沢工芸のオークションに参加された山野市長は、「1を10にするにはそんなに大変ではないことが決して少なくはないが、ゼロをイチにすることはどんなことであっても大変なこと」だとおっしゃっていましたが、第1回を開催するに辺り、その大変さは私には図り知れませんが、市長の強いリーダーシップによるところが大きいことは周知の事実です。これからも、そんなにた易いことではないと思いますが、末永く繋いでいくよう願っています。
P.S
味をしめた訳ではありませんが、以前から金沢でもやっている「ウォーキング大会」を拡大して長崎市の「長崎さるく」の金沢版をやってみてはと思います。2番煎じと言われそうですが、金沢ならではの企画だと確信しています。昨年、金沢でも研究会が発足して「町歩き観光」を全国規模の大会にと検討されていますが、この企画は、一日だけのイベントに留めず「1週間」とか「1ヶ月間」の継続イベントが可能で金沢観光には打って付けのように思います。
(PHOTO等北国新聞他)