【野町広小路】
神明宮の大ケヤキは境内にあり、樹齢は私が子供の頃から約千年と言われています。かって文部省「史跡名勝天然記念物」に指定されていましたが、今の肩書きは金沢市指定保存樹第1号です。この圧倒的な存在感は、今も様々の人達を癒し多くの人々に親しまれています。
このケヤキの巨樹は、樹高33m、幹周7,83m、枝幅25mを誇る県下最大で、古来より巨樹にはエネルギーを発する力があるとされ、近年ではパワースポットとして注目されていますが、境内にあって空に向かって枝々を大きく広げ、その爽やかな息吹は、訪れる人達を包み癒し続け、昔から今も変わらず金沢の人々にエネルギーをおくり続けています。
(大坂の陣の直前、伊勢踊りというものが流行し、お経を唱えて歌って踊るというものらしく、伊勢から始り、金沢の町でも伊勢踊りが大流行したといいます。人々は金沢市中から最終地を神明宮の大けやきを目指し三日三晩、町を練り歩き踊り明かしたと言われていますが、その賑わいは江戸の神田祭りや浅草の三社祭り匹敵するほど盛大であったと伝えられています。)
神明宮は、天照皇大神、豊受姫神を御祭神として、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社です。古来より“お神明さん”の愛称で親しまれ、金沢旧五社で藩政期より藩主前田家の信仰が特に厚く、加賀藩五代藩主前田綱紀公は神明宮を氏神にしたといいます。明治7年(1874)から昭和20年(1945)の終戦まで、郷社泉野神社といわれていました。
(金沢五社とは、石川県金沢市に所在する神社の内、江戸時代から神官が守護する宇多須神社、小坂神社、神明宮、椿原天満宮、安江八幡宮の吉田神道の五つの神社の総称です。それから、この金沢の神明宮は全国七神明(他、東京・芝神明、山形・湯殿山神明、大阪城神明、長野・安曇神明、京都・東岩倉神明、京都・朝日神明)で、または三神明(芝神明、東岩倉神明、金沢神明)の一社だそうです。)
(由来)
≪あぶりもち神事≫
悪事災難厄除にご利益がある社として古来より「祓宮(はらいのみや)」と言われ、特に春秋(5月・10月15日~17日)の例大祭は「お日待祭(ひまちまつり)」、「あぶりもち神事」と呼ばれ、三百年以上続く全国只一つの悪事災難厄除伝統特殊神事として有名です。
加賀藩2代藩主前田利長公が春秋の祭礼を厄除神事として奨励し、御祭神のご利益を広く民衆に広める手立てとして、祭毎に供える餅を御幣(お祓いの用具)形に串刺しにしたものを飾って“家守(いえまもり)”とする一方で、聖火にあぶったものを食して身体の災厄を免れる信仰として自ら範を示した事が起源とされます。
(あぶり餅のタレは、生姜風味の甘い味噌タレで、柔らかすぎず、固すぎずのほどよい食感で、私は、それなりに美味しく戴いていました。また、生姜は古くから漢方薬の原料としても使われてきた食材ですので、食べるお守といえます。)
≪神明宮には、こんなお話があります。≫
① 日本で最初に社会福祉事業を興し、最も古い社会福祉施設として全国的に知られている陽風園の創設者である小野太三郎は、天保11年(1840)金沢の中堀川町(現・金沢市堀川町)にて生まれ、16歳の頃に白内障を患い神明宮に祈願を続け、100日目に神のお告げを感じて、奇跡的に治癒したと云われています。後年この話がウワサを呼び、願掛けし“お百度参り”をする者が急増したと云います。
② 中原中也の詩「サーカス」は、幼年期にこの神社の境内で見たサーカスを書いたもの。また、室生犀星の生家に近く、詩人に縁のある神社でもあります。
③ 磯田道史著「武士の家計簿」の猪山家とも縁深く、神明宮が猪山家の氏神で、子供の初宮参りなどの記述があります。
(門前)
④ 藩政時、毎年正月15日に城内各所の注連縄を、寺社奉行立会いの下、神明宮境内にて焼かれるのが慣例で、金沢の左義長の元だといわれています。
(境内のケヤキの落ち葉)
⑤ 蛤坂真長寺の稲荷大明神は金沢城内稲荷屋敷に安置されていたお稲荷さんで元和8年(1622)に御城普請で金沢城南西の鎮護のため真長寺に遷座され、このときより藩主より祈祷を命ぜられたそうです。明治になり神仏分離で、明治7年(1874)郷社泉野神社(現在の神明宮)に移しますが、お堂のみ建立し御神体はそのまま真長寺が拝し現在に至っているそうです。