【金沢市内】
建築物を訪ね歩くツアーをアーキテクチャー・ツーリズムというのだそうです。金沢の街をヨソ見しながら歩くと、大きな戦火や自然災害に見舞われなかったことから藩政期、明治、大正、昭和そして現代まで様々の建物が共存していることに気づきます。
金沢の旧市街は、藩政期、籠か馬以外は歩くしかなく、その頃の道が今も残っていて、一部拡張したところもありますが、今でも古地図だけでも歩けます。道路に面した商家や寺社、武家屋敷、昭和に建てられたモダン建築、そして話題の現代建築が混在しながら不思議に調和し、旧市内は徒歩で用が足りる規模で、歩くのが楽しくなる町です。
(谷口建築めぐりの冊子より)
今回は、著名な建築家で金沢にも代表的な建物を残された谷口吉郎氏のお話です。谷口吉郎氏は、金沢出身で文化勲章受賞者ですが、昭和41年(1966)国が、京都、奈良、鎌倉等かって都であった都市を保存するため指定した通称「古都保存条例」に習い、昭和43年(1968)に金沢市は全国に先駆けて指定した「金沢市伝統環境保存条例」の起案者でもあります。この条例が金沢の文化行政の根幹となり、今日の歴史的な建造物を保存、活用に繋がっていきます。
(金沢市伝統環境保存条例は、500年にわたり金沢では大きな戦火や自然災害に見舞われなかった金沢市の歴史的環境と豊かな自然環境を守り、これと調和した近代的都市づくりを進める本になります。)
谷口吉郎氏(1904~1979)は、東京国立博物館東洋館(東京)、東宮御所(東京)帝国劇場(東京)などを手掛けたほか、庭園研究者で、博物館明治村(愛知県犬山市)の初代館長でした。
(室生犀星文学碑・犀川右岸)
(金沢で手掛けた建築物は、石川県繊維会館(現西町教育研修館・金沢・1952)石川県美術館(現石川県立伝統産業工芸館・金沢市・1959)金沢観光会館(現金沢歌劇座・金沢・1962)金沢市立玉川図書館(金沢・1979・子息谷口吉生と共同設計)他に金沢の文豪徳田秋声と室生犀星の文学碑があります。)
≪谷口父子合作の玉川図書館≫
子息の谷口吉生氏が建築家として一歩を踏み出したのは、昭和53年(1978)に着工した金沢市立図書館(現玉川図書館)で、吉郎氏が総合監修で、赤れんが造りのたばこ工場跡を近世史料館に改修し、吉生氏は隣の新築本館を担当しました。鉄板の外壁にガラス面を大きく取り入れた現代建築で、吉生氏によると、建築は新しい風景をつくることから、敷地(全体)をよく見で把握し、古い建物(たばこ工場跡)と隣の公園との連続性を考えたそうです。翌昭和53年(1978)、吉郎氏はお亡くなりになり、この玉川図書館は始めの終わりの合作となりました。
(谷口吉生氏は東京で生まれ、戦時中に金沢に3年間、疎開し十一屋小学校、三馬小学校に通われたそうです。)
(現石川県立伝統産業工芸館)
≪2人の作品に共通する―清新な空間≫
谷口父子の作品は、伝統に根ざしそこから優れた特質をチョイスし“清新な空間を創造する”という考え方が貫かれています。時代差やバックグランドも異なり作風にも微妙な違いを感じさせます。強いて言えば、吉郎氏は、清らかでありながら華麗な抒情性をたたえた静的な建築で、吉生氏は、環境との関係性を重視し、透明感あふれる動的な建築であるように見て取れます。
(鈴木大拙館)
谷口吉生氏は、平成23年(2011)に鈴木大拙館(金沢市本多町)を設計しました。その崖沿いの庭と連続する空間に思索棟を囲むよう、一面に水を張った水鏡の庭を配し、時間、季節の移ろいも感じさせながら、大拙の思想を深めるように造られています。谷口氏によると「私がやった美術館・博物館の中で、一番小さく、一番難しかった。プレッシャーがあった」と言われた聞きます。
≪谷口吉郎氏の生家が、金沢市の建築文化拠点に≫
最近の新聞のニュースでは、金沢市に寄付された建築家谷口吉郎氏の生家(寺町5丁目)は、整備し建築文化拠点の施設にすることになり、設計は、谷口吉生氏が担当することが決まったとつたえられています。施設は谷口親子の建築資料を核に展示し、施設そのものも意匠性が高い「まちの展示物」とするそうで、金沢市では谷口氏が手掛けたことを広く発信し「建築観光」の振興に繋げるのだそうです。
参考資料:金沢市プロモーション推進課「金沢アーキテクチャー・ツーリズムVol.1」・北国新聞・ウィキペディア日本語版など