【金沢山の上町・九谷村】
再興九谷は、以前にも書きましたが、藩の産業政策であり雇用対策として文化4年(1807)に卯辰山の春日山に開窯します。当時加賀藩では、磁器は生産されていなくて常用の磁器類は他国か36~37万枚も買い入れていました。当然、輸送費も嵩み費用は莫大で藩は、尾張が磁器の国産化に成功したことを知り国産化の踏み込む事になり、藩営の窯を開窯すべく、京都より当代随一の名工青木木米を招聘することになります。
文化4年(1807)11月に開窯。窯には青木木米が執心した祠が入口に設けられ、新窯の繁栄を祈願して祀った鎮守は「箕柳祠(きりゅうし)」と名付けら、中国「景徳鎮(けいとくちん)」の「風花仙(ふうかせん)」を模したものと言われています。木米が春日山窯の築窯に期待したのは「陶説」に記されている「景徳鎮」に倣って日本の景徳鎮を実現することにあったといわれています。
しかし加賀藩の期待は、産業政策と雇用対策だったこともあり、文化5年(1808)1月15日。金沢城の炎上で藩は緊縮財政をとり開窯からわずか4ヶ月、3月には「藩営」から「民営」に切り変えられます。そのため木米に対する待遇も悪くなり、元々、アーチスト思考のクリエーターである木米の目的にそぐわないところもあり、その年の冬、木米は、2年足らず在籍した春日山窯を去り京都に帰ります。
「民営」になった春日山窯は、松田平四郎らが経営にあたり、木米の弟子の本多貞吉、任田屋徳右衛門、越中屋兵吉らによって製陶が続きますが、文化8年(1811)本多貞吉が藩営と言われる若杉窯に移った頃から衰え、文政元年(1818)には開窯からわずか11年たらずで廃窯になり、以後、再興九谷の拠点は江沼・能美地区に集約されます。
松田文華堂③青木木米
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また、古九谷といわれる磁器も藩の産業政策として、明暦初期(1655年頃)に始まりが、わずか35年間程で突然廃窯となったといわれています。伝説によると大聖寺藩領の九谷村で良質の陶石が発見されたのを機に、藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に行かせ帰藩後に藩の産業政策として開窯しますが、18世紀初頭にはまぼろしの窯になってしまいます。
何故?そして後藤才次郎はどのような人物であったのだろう?言い伝えでは才次郎は代々加賀藩に仕えた金工家後藤家で、代々才次郎を名乗ったので、どの代が九谷焼の創始者か説はまちまちですが、どうも白山比咩神社にある有名な拵金具の刻銘にある後藤才次郎吉定が初めの才次郎らしく、九谷を手掛けたのは、その子才次郎定次で嗣子忠清が九谷の陶祖の後藤才次郎忠清という事のようです。
(高橋勇氏の「加賀の工藝」によると才次郎吉定は、後藤家7代顕乗の門人後藤市右衛門の二男で、3代利常公に招かれ加賀に来て吹座役を勤めています。その子定次は父と同じく吹座役として大聖寺藩に招かれ、九谷村で金鉱開発を命ぜられます。それが磁石の発見から磁器の製造に努力するが完成を見ずに死亡。その志を継いだ嗣子忠清が完成したといわれています。)
(九谷焼のイメージ写真・現代の作品)
それによると引き継いだといわれる才次郎忠清は、製陶に思いあまり大聖寺初代藩主利治公に相談の結果、藩主より肥前に行き製陶と上絵の秘法を得てくるよう重大な使命を与えられたといわれます。才次郎忠清は、肥前に行った事とは事実らしいのですが、鍋島藩は貴重のお家芸をそう易々とよそ者に入り込ませるはずがないと思われます。
(明治時代に書かれた芝居の戯曲によると、才次郎忠清が当時肥前の柿右衛門の窯の赴き町人姿に身を変えて柿右衛門の下に住み込み、柿右衛門の娘の婿になり製陶と上絵付けの秘法を伝授され、やがて妻子を捨て、大聖寺藩に帰り九谷に窯を築き古九谷の名品を作ったのだと実しやかに伝えています。)
(九谷焼のイメージ写真・現代の作品)
実際にはとして、高橋勇氏の「加賀の工藝」では、肥前まで来ただけでそのまま帰藩も出来ず、亡命中の中国明の陶工を連れ帰ったというのが最らしく思えると書いてあります。今残る古九谷の赤や紫、緑は柿右衛門のものとかなり違い、もしも習ったものなら変えるはずもなく、そして古九谷の上絵こそ明の磁器の色彩そのものだと書かれています。
(それから、余りにもその出来が明陶に似ていることから、幕府は国禁を犯し中国と交易をしているのではと隠密を加賀に入り込ませたとあり、このままだと幕府に得がたい口実を与えることから、窯を破壊し、産業政策の大功労者である才次郎忠清を召し取ったと伝えています。)
参考文献:杉田博明著「京焼の名工・青木木米の生涯」株式会社新潮社 平成13年1月発行、高橋勇著「加賀の工藝」石川美術文化協会・昭和33年4月発行