【旧加賀国江沼郡九谷村】
平成21年(2009)の「金沢大学考古学紀要30“九谷遺跡出土品から探る九谷色絵”」によると、九谷には亡命中の中国明の陶工を連れ帰ったという伝承はなく、有田陶工が大聖寺藩によって九谷に招かれたときに色絵工人も同道したと思われると記されています。
(金沢駅のシンボル九谷焼の大型陶板・文化勲章受賞者浅蔵五十吉氏)
その後、九谷に有田から新たに追加陶工が招かれた痕跡はなく、九谷は有田の技術を基本とするが、染付文様は有田とは異り、絵描き技術者の由来は京都や加賀工芸に求めることも可能であるが、この点については不明瞭な点が多いと書かれています。
しかし19世紀の人々は古九谷が17世紀中頃から九谷村で焼かれたと考え、その後も定説として受け入れられてきましたが、20世紀後半に古九谷は有田の山辺田窯跡等で焼かれたとする説が広がり、古九谷の加賀説と有田説が対峙します。色絵用の白素地は九谷、有田の両方の窯跡から出土するが、古九谷と似た素地は有田が圧倒的に多く、色絵破片も有田の窯跡及び窯跡付近で出土されたことによります。
昭和45年(1970)と昭和46年(1971)九谷古窯を元東大教授の考古学者を団長とするメンバーで発掘が行われ、出土陶片は今見られる古九谷と作調が違うものでした。翌昭和47年(1972)の有田の山辺田窯跡では、同じ団長により発掘で、始まって3日目にもう色絵片が出てきたといいます。
その山辺田窯跡で発掘された窯跡は8つ有り、その4つから色絵が出たもので、古九谷は伊万里焼であるということになり、それまでの素地は有田で加賀の九谷で上絵を付けたという定説も崩れ、その色絵が出ることによって、もう完全に古九谷は伊万里(有田)のものであるという事になったというのが話の始まりのようです。
しかし、有田の場合、登り窯で、それも表面採取と言われ草むらにあったもので、発掘団は考古学者で陶磁器の専門家がいなかったのか、古九谷の特徴である上絵付けは登り窯で焼かないことを知らなかったのか、当時、出たぞ出たぞと大騒ぎしたので一気にそのムードが高まって、いわゆる新聞報道あたりもそれをサポートするふうに書かれたことから、以来、古九谷伊万里論者の主張「古九谷は有田の初期色絵作品である」という説が有力となったのだそうです。
「詳しくは」
九谷焼の真実に迫る―NPO法人さろんど九谷
www.salon-de-kutani.jp/kutani/sinjitu8.html
しかし、昭和63年(1998)九谷古窯に近い九谷A遺跡から、古九谷風の色絵陶片が発掘されたことから、その可能性を探るべきだという意見から、この古九谷論争が再び起こります。
(国立博物館)
今「古九谷」という名称で表示しているのは石川県が中心で、国内の多くの美術館では「古九谷伊万里説」が成立したときに国立博物館が指導した「伊万里焼古九谷様式」の名称で呼ばれています。しかし、有田では、一寸複雑で、古九谷様式というのは九谷風という意味から、古九谷風に書いた伊万里焼ということになるので、有り得ないという事からか「肥前有田」もしくは「肥前皿山」と言うそうです。
大阪の市立東洋陶磁美術館では、「伊万里焼古九谷様式」と書かずに「有田古九谷様式」と言ううらしい・・・。
「古九谷の画像」
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E5%8F%A4%E4%B9%9D%E8%B0%B7
参考文献:金沢大学考古学紀要30九谷遺跡出土品から探る九谷色絵など