【明治の日本では】
明治政府は、経済的基盤の確立が急務でした。そして国家権力で「上から」による殖産興業政策を推し進めました。今さらいう事でもありませんが、その一翼を担ったのが、生糸や茶と並び銅器、陶磁器などの工藝品の輸出を前提とした産業を奨励します。
(明治の金沢城石川門)
当時、美術工藝は岡倉天心やフェノロサらが、その芸術性と卓越した技術自体に本質的価値を見出した人々もいますが、明治政府の政策は、佐野常民やワグネルなどが進める日本の工業立国を担うための工業製品としての工藝品で、付加価値の高い輸出産業の目玉として推進しています。
(当時、欧米を中心にジャポニスムの需要を背景に、まだ、機械工業が未発達な日本にとっては、工藝品は重要な輸出品であり工業製品でした。明治20年代後半日清日露の戦争で本格的な機械工業化社会へ進む過渡期だったといえます。)
(今、石川県の伝統的工芸品は36種類・県立伝統産業工芸館)
明治初期以来、輸出産業政策としての「美術工業」の育成は、一部の工藝品の洋風化を推進し、量産化、効率化、高品質化のため、軽機械化や先進的な化学技術を積極的に取込まれた結果、明治の工藝界が活性化され、工場制の生産形態が各地で展開されるようになります。
(明治に開校した金沢の工業学校)
その担い手の養成として、明治20年(1887)に金沢で納富介次郎により日本で最初の工業学校が開校されますが、その科目を見ると美術工藝部で括った工藝科目が並び、今の工業とは随分違います。その後、明治27年(1894)に高岡に同じ納富介次郎が開校する同種の学校の校名は工藝学校になっているところからも、素人の推測の域を出ませんが「美術工業」というのは、明治20年(1887)前後、過渡期の概念だったのでしょう?
(当時、政府は日本人が手仕事に長けていることに注目し、工藝品の貿易を目指します。しかし、一品制作による工藝品の輸出には限界があり、工藝品の軽工業化というべき量産体制に入っています。)
(納富介次郎)
このように工藝と工業の使い分けは、重要な貿易輸出品だったことによるもののようですが、日清戦争以後になると、手工業生産の“工藝”と機械械生産の“工業”というふうに分類されます。しかし明治初期に官製用語として生まれた工藝は、その後、日本における政治・経済・社会・文化的な影響を受けながら、その用語の使われ方も、また、枠組自体も変容させていくことになります。
(金沢駅構内に展示の現在の工藝作品)
「工藝」と「工業」が分離され、工藝は、「純粋美術(絵画・彫刻)」以外の「手仕事」による造形という括りとなりますが、工藝は、種類が多いだけでなく、その概念も、工藝作家による手仕事を工藝品とするもの、また、一品製作から量産へと移行し変貌を遂げたモノもあり、一方では、手仕事を尊重し用と美を主張する伝統工藝や工藝素材を使い現代アートを思考する工藝や民衆の生活から生まれた民藝等々、今も枠組に曖昧さ残しています。
(また、工藝職人の位置付けも曖昧で、作品を作るときは「工藝家」や製品を作るときは「職人」と自他共にそのように使い分けているという・・・。)
(今の石川県立伝統産業工芸館)
(つづく・・・かも)
参考文献:「石川県立博物館紀要 第三号(「美術工業」と輸出商・本康宏史著)平成2年、石川県立博物館発行他