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石川県の新長期構想“文化が柱の意味は大きい”

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【石川県金沢市】
北国新聞の社説で「県の新長期構想」に“文化が柱の意味は大きい”の見出しが目に入りました。その新長期構想には「個性と魅力のあふれる文化と学術の地域づくり」が重点戦略の一つに掲げられたとあります。金沢市では、かって「学術文化政令市」を目指した時もありましたが、北陸新幹線の開業など環境の変化を受けたとはいえ、ここにきて10年間の県政の運営の指針に!!まさに“文化が柱の意味は大きい”というべきでしょう。


(金沢城の石垣)


(小堀遠州)


この地は、昔から「加賀百万石文化」とか「加賀の武家文化」と言われていました。元々文化を柱にした土地柄で、3代藩主の利常公が、当時の代表的な文化人小堀遠州の知恵を得て基礎を築き、5代の綱紀公が完成させたといわれていますが、そのルーツは、初代の前田利家公であり、さらに言えば、織田信長公であり千利休でした。



(石川県庁)



(北国新聞社説2016・2・5)


織田信長は、「うつけ」と言われていましたが、それが、どうして、どうして・・・。
人間対人間の茶道文化に裏打ちされた千利休の自信に気づき“文化を経済政策に取り入れ価値の転換を図る”ことを試みたのだといわれています。



(信長と利休)


例えば、茶道という文化から派生する新しい価値を、知行や褒賞にしています。今風にいえば給料やご褒美ですが、従来の土地から、茶道の壷や器を新しい価値として、家臣に与えています。その信長のやり方を目の当たりに見てきた利家公は信長公が試みた”文化を立国の精神に“を自ら加賀の地において実行したのです。



(金沢城石川門)


以前にも書きましたが、これは小説家の童門冬二氏からの受け売りです。先生の話によると、加賀藩の文化政策は、信長公の文化を経済政策に取り込んだもので今風にいうとパクリですが、それがその時代、誰でも出来たかというとそうではなくて、利家公が味わった「挫折」や「屈折」や「傷み」から得た心の持ち方から、信長公の思想を会得したのではないだろうかと、結んでいらっしゃいました。

(前田利家公)


拙ブログ「加賀藩の文化政策」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11582317263.html



以来、利常公、綱紀公の時代、さらに明治、そして現在まで「文化によって国を立てる」という信長公と初代利家公のポリシーが、天下の書府、能、工芸など学術と文化の町とした連綿と繋がれてきたことに、改めて気づかされます。


現在、金沢が文化の町である事の象徴的な一例として、美術・工芸において芸術院会員と人間国宝の認定者が多いことが挙げられます。それは、彼らの個人の才能や努力に加えて、金沢が400年前から日本の中にあって最大の文化の町で有ったことと深く関わっています。


(具体的な数字をあげますと、日本のトップクラスの芸術家の人数は、芸術院会員の美術工芸・建築部門で全国、50人の内、本県出身は油絵の2人、工芸の3人計5人で全体の約10分の1、その内工芸の3人は本県に在住しています。人間国宝は現存者50数名の内9名の約20%、すべてが本県在住です。物故者も含めて認定者162名に対して17名これも10分の1以上が石川県人です。ちなみに石川県は、人口に於いても、あらゆる統計で見ても全国の100分の1ということですから、この美術工芸部門は、確かに特別だということが分かります。)




当時、「徳川幕府」に潰されないために、武力や財力を覆い隠し、幕府を欺くための文化政策によって始まります。その時、この地に根付いた工芸が、今日まで連綿と引き継がれたことにほかなりません。



藩政初期、江戸、京、朝鮮半島から優秀な技術者が集められ、製作に当たる職人を下級武士と同じ待遇(御歩並)で禄(給与)を与え大切に育てました。そんな伝統から、明治になった以後も様々の経緯を経て工芸が盛んになり、この土地では一流の芸術家を目指す職人の裾野が広がり、今に繋がったと言う側面も有ったように思われます。


参考:北国新聞、平成21年の童門冬二氏の講演など


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