【金沢城下】
寛政16年(1639)加賀藩3代藩主前田利常公は小松城に隠居しました。その2年後の寛永18年(1641)3月、3代将軍家光公の信頼厚い南光坊天海から手紙が届いたといいます。江戸幕府は、その年2月から諸大名を完全に組み込むための政策の一つとして林羅山・鵞峰父子を編集責任者に「寛政諸家系図伝」の編纂が始まりました。
(金沢城河北門と菱櫓)
手紙の内容を要約すると「幕府は、諸侯の系図の提出を命じている。家康公の在世時から、”源氏の長者“になられているが、前田家は常々”菅原氏“を名のっておられ、現藩主の光高公は家康公の曾孫に当たるのだから、この際”源氏“を名のられるよう・・・・云々」というものだったといわれています。
翌4月江戸の上った利常公は、この天海の“源氏”への改姓勧告を拒絶し、“菅原姓”に固執します。とはいえ、利常公の夫人珠姫は、家康公の孫にあたり、利常公13歳の元服の際には、家康公から松平の苗字を許され、本姓も“源”を用いています。さらに隠居後の小松城の棟札にも“松平肥後守源朝臣利常”の署名があるといいます。
(金沢城石川門)
実父、前田利家公が「前田氏は菅原道真公の家系で、6代前に筑紫から尾張の荒子の移住してきた」といったという話はありますが、生前に“菅原”と署名したものはないという。また、実兄の2代藩主前田利長公は、死ぬまで本姓は“豊臣”を用いました。これは徳川氏に対抗する意思表示であると思われますが、慶長の末までは幕府も諸大名の“豊臣姓”の使用を黙認していたといわれています。
何故、利常公は“菅原姓”に固執したのでしょうか?反徳川の気概!!自主的精神の発露!!・・・・。深読みすれば、“源平”の武門を名のらず「学問の神」を仰ぐことで、天下取りの意思が無いことを幕府に示したともいえなくもありません。明暦3年(1657)の小松天満宮を建立も“道真公―前田家”の学問・文化の系譜の定着を図るためだったのでしょうか・・・?
(小松天満宮)
徳川家と4代藩主光高公に関わる逸話があります。光高公が曽祖父家康公への崇敬の念から金沢城内に東照宮を造営します。それに対し父利常公は「若気の至り、いらざる事をする」と不満ぶつけ「徳川家がこの先どうなるか分らないのだから、藩主として分別せよ」とたしなめたといいます。
少し脱線してしまいましたが、前田家の本姓“菅原”は、利常公の知恵?道真公を祖先とする!!正確には“先祖と主張する”ということは、子々孫々が菅原道真公の末裔と信じ、深く敬い、それが前田家の信念として継承されていくことを願ったということなのでしょうか・・・。
5代綱紀公は、天神の子孫であるからには、それにふさわしくあらねばという思いからか、道真公の画像や絵巻、詩文などを精力的に集めています。元禄4年(1691)、かねてより心に誓った10ヶ条の「大願十事」を示しますが、第一に藩祖利家公が祀られる卯辰八幡宮に敬意を表しながらも、利家公の誕生日を天満宮の吉数の二十五日に定めたといわれていす。
また、歴代藩主は、官公50年祭ごとに総本社、京都の北野天満宮へ代参を派遣し大刀などを奉納しています。前田家が道真公の子孫であることは代を重ねるにつれ、ゆるぎない事実になっていったものと思われます。また、宝暦初年(1752~)頃には、金沢城下の30以上もの寺社には道真公の“天満大自在天神”が祀られ、藩臣および一般領民にも天神信仰が広まって行きます。
しかし、現在の通説では、前田氏の本姓は“藤原”で、梅鉢紋は天神信仰から神紋を用いたということのようです。
参考文献:監修藤島秀隆・根岸茂夫「金沢城下町」(前田氏と天神信仰・瀬戸薫著)など