【鈴見橋→常盤橋】
旧品川町(きゅうしながわちょう)は、今の天神町2丁目”天神町緑地“辺りにありました。昭和41年の町名変更にともない旧品川町、旧天神町一丁目~四丁目、旧柿木町、旧板前町、旧三十人町、旧田町、旧田町新道を統合し、「新」天神町1丁目、2丁目として再編成されました。その時、三丁目と四丁目が消滅します。
(町名変更前の旧品川町界隈)
藩政期は人持組品川氏の屋敷地で、初代品川左門雅直は加賀藩3代藩主利常公の近臣でした。利常公が万治元年(1658)10月に逝去され、殉死した近臣が5人とか6人といわれていますが、最後の1人に残った左門は、利常公の“生き延びて子を補佐するように”という遺訓に従い「追腹はせぬ」と決意するも、周囲から殉死を迫られ「追腹」を切ったといいます。
(野田山の前田家墓所には、利常公の墓地の脇に殉死した5人の近臣の墓が並んでいます。品川左門、古市左近、堀作兵衛、原三郎左衛門、竹田市三郎)
(延宝金沢図より)
左門は、少年時代から美貌で、召し出され利常公に寵愛された人物で、利常公が病没の際、意識を失う直前に左門の名を叫んだといわれています。その絆は並々ならぬものだったのでしょう。一説には、主君と寵臣として性愛的な繋がりが有ったとも伝えられています。
(「つひに子共さへ見ぬ玉の肌へを押はだぬぎ・・・」亡き主君の他、我が子にさえ見せたことのない美しい素肌を見物人の眼にさらす・・・。その死に様は、深い感動をさそったことでしょう。)
(現在の宝円寺境内・切腹した場所は?)
「追腹」を迫られた左門は、“自分は命が惜しくて生きていたのではない”と言う姿を人々に見せ付けようとしたのでしょうか、2ヶ月後、万治元年(1658)12月4日、前田家の菩提寺宝円寺の境内に幔幕を張り、その幕をまくり公開切腹したといいます。享年34歳。今も忠義で剛毅な武士として言い伝えられています。
(その子孫は 3000石を拝領し人持組(重臣)として代々加賀藩に仕えます。)
(現在の天神町緑地(旧品川家辺り))
それから5年後、寛文3年(1663)の武家諸法度の公布とともに殉死の禁が口頭伝達されました。この頃になると幕政も武断政治から文治政治へ、朱子学に基づく武士道へと変り、寛文8年(1668)には「追腹」で禁に反したことで宇都宮藩の奥平昌能が転封処分を受け、天和3年(1683)には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ本格的に禁令になったといいます。
(品川氏(しながわし)は、花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家で、白川伯王家第21代当主神祇伯参議雅陳王の子である品川左門雅直が始祖です。)
(現在の天神町辺り)
さらに遡ると現天神町緑地は、“高垣”といわれ、文明の頃、木曾義仲ゆかりの樋口氏の木曾坂城(現宝円寺)の前陣で、樋口氏の縁戚高垣氏の居城であったといわれ、今も天神町には高垣姓の家があるといいます。
(現在の宝円寺①)
寿永3年(1184)木曽義仲の討死により、夢破れた木曾義仲軍の樋口次郎兼光の一族が、敗残の身を故郷木曾谷に似たこの地に定住したのだと伝えられています。その子孫は文明6年(1474)の“文明の一揆”で若松の地頭狩野氏と共に富樫幸千代側に付いて敗北したといいます。
(“文明の一揆:兄政親と弟幸千代のよる富樫家の内紛)
その後、長享元年(1487)二俣の本泉寺が移った若松の防衛線として、左翼の田井城(現国立医療センター)木曾坂城(現宝円寺)、高垣堡(現天神町緑地)、右翼の椿原堡(現椿原天満宮の上)の“鶴翼の陣”は、守りの要になりました。
(現在の宝円寺②)
長享2年(1488)、若松の本泉寺を頂点とした一向一揆軍と守護富樫政親が対決した”長享の一揆“での一向一揆軍の勝利が、以後、約100年続く“百姓の持ちたる国”の始まりであったと伝えられています。
参考文献:「消された城砦と金沢の原点を探る― 一向一揆時代の金沢・小立野台地周辺考」辰巳明著・「加賀藩十村役田辺次郎吉―十村役の実像を求めて―」清水隆久著 平成8年8月発行・「天神町二丁目の歴史と思い出」紺谷啓著