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16代前田家のお殿様④軍人利為候(三)

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【東京目黒区】
昭和13年(1938)1月には戦時体制から第三軍が再編成され、第12師団の山田中将が第三軍司令官になり、前田中将の第八師団は第三軍の戦闘序列に入ります。ところが第三軍の司令部が牡丹江から北に1km離れた掖河(えきが)に変更になります。改修したばかりの官舎を山田中将に明け渡すことになり、前田中将が、その不快感を日記に洩らしていますが、これに中傷的風評の尾ひれが付き第三軍との確執を増幅させます。その為か?第八師団は、綏芬(すいふん)地区に移動命令がでます。





(「前田利為(軍人編)前田利為候伝記編纂委員会・平成3年10月発行)

(当時の満州地図、牡丹江・掖河(えきが)・綏芬(すいふん)が見える)



第三軍は、日露戦争で乃木希典大将が指揮した部隊ですが、平時、内地において高級部隊は師団のみ、軍は戦時に2以上の師団で5万人以上が編成されます。日中戦争により昭和13年(1938)1月に第三軍が再編成れました。)




(乃木希典大将)


その年7月東満国境で日ソ両軍の衝突事件がおこり、第八師団も影響をうけ、これについて前田師団長は、陸軍中央部の「一撃思想」「第三軍の無謀作戦」を批判します。8月に日ソ停戦協定が成立しますが、12月には突然、第八師団長を免じられ参謀本部付きに補されます。


利為候は、三国同盟で吉田茂とともに大反対を唱え、軍部首脳に疎まれた反枢軸派でした。シナ事変に際しては、第八師団長として、ソ連国境の防衛に服しますが、関東軍の参謀長であった東条英機と路線をめぐって対立しています。)



(駒場前田本邸の和館)

昭和14年(1939)1月31日に予備役編入になり30余年にわたる現役軍人の道が一旦幕をとじます。現役を退いた利為候は、貴族院議員として多方面で活躍しますが、昭和16年(1941)12月8日に太平洋戦争に突入すると、昭和17年(1942)4月1日臨時召集を受け、ボルネオ守備軍司令官に親補されます。


(駒場前田本邸の洋館)

貴族院議員時代の逸話として、第2次近衛内閣の文相就任を要請されると「軍人は政治に介入すべきではない」といって断っていることからも、利為候の貴族精神がうかがえ、「常に美しいものに接していれば、自分も美しくなる」と洩らして表面にでることを嫌ったといいます。


(ボルネオ守備軍司令官は左遷で、最後の戦場に旅立った昭和17年9月5日58歳で乗機が撃墜され戦死します。爵位を持つ軍人で戦死したのは、利為侯ただ1人だそうです。尚、10月28日に、遭難日9月5日に遡り陸軍大将の昇任し、特旨をもって正二位に叙せられました。)

当初、その死は、陣没と発表されます。陣没だと相続税を払わねばならないが、戦死だと免除されることから、相続税目当てに、故意に陣歿扱いにしたのではないかと国会で取り上げられ、当時の蔵相が「陸軍のお指図次第」と答弁して戦死に変更されます。


(戦時においても軍人の事故による死亡は陣没(殉職)ですが、利為候の場合は特に戦死と認定されています。)




(東条英機大将)

葬儀では、葬儀委員長、副委員長とも、すべて石川県出身者で、参列者は、林銑十郎、阿部信行の軍人で総理経験者をはじめ旧加賀藩士が参列する中、弔辞は生前互いに反目し合っていた東條英機が読んでいます英機、君ト竹馬ノ友タリ。陸軍士官学校ニ於テハ、寝食ヲ同シ、日露ノ役ニ於テハ、同一旅団ニ死生ヲ共ニセリ。爾来、星霜四十年、相携ヘテ軍務ニ鞅掌(おうしょう)シ、交情常ニ渝ハルコトナク、互、許スニ信ヲ以テシ、巨星南溟ニ墜チテ再タ還ラズ。哀痛何ンゾ譬ヘン。英機、君ノ声咳ニ接スルコト長ク、今、霊位ニ咫尺(しせき)シテ猶生クルガ如キ……」


東条との不和が、利為候の生命を奪うことになりますが、それにしてもこの東条の弔辞と慟哭し絶句したのは何なんだろうか・・・?利為候は、軍人としては戦術家として屈指の頭脳をもっていたといわれましたが、結局、誤解とひがみが付いて回った軍人だったのでは・・・。

と、ここまで読み上げた後、東條は慟哭し絶句したといいます。


(つづく)

参考文献:「最後の殿様ボルネオに死す」藤島泰輔著・“文芸春秋”昭和43年2月号「前田利為(軍人編)前田利為候伝記編纂委員会・平成3年10月発行。他


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