【東京・世界の各地】
前田利為候は、華族の立場と階級が絶対の軍人社会には必ずしも馴染まず矛盾と衝突に悩まされながらも、この頃には軍人として生き生きと活躍しています。国際連盟軍事委員会の日本空軍代表に引き続き、35歳の大正10年(1921)2月、デンマーク・ドイツ国境画定委員日本代表に任命され、前田少佐が出席した初会の会議は10月。英・仏・日・伊の連合国側とドイツとデンマークの6ヶ国委員でドイツのサンダーバーグで行われました。
当時、デンマーク・ドイツ両国間に北海方面の国境画定に関する争議があり、当初、ドイツ領内に「牡蠣畑」を含めていたものが、その後、点検したところドイツが指示したところに「牡蠣畑」がないので、点検を再考することになり、連合国側を代表して前田少佐が単独で立ち会うことになります。
次回の会議は、ドイツ委員が牡蠣の専門家を連れてきて弁明、デンマーク委員は「牡蠣畑」をもって国境線を左右すべきでないと主張します。すでに英仏両国委員は、牡蠣問題は不問として新国境を画定するつもりであったが、委員長の求めに応じて前田少佐は「国境線はすでに牡蠣の存在をもって画定したこれまでの行き掛かり上、仮定境界線をもつのが適切。」と述べ、その決議は次回に持ち越されます。
結局、次回までに牡蠣畑をめぐる国境問題は、すでにデンマークの譲歩によりドイツ、デンマーク両国で妥協が成立していますが、英、仏、伊の委員のいずれも妥協案に反対で、ドイツの唱える牡蠣の経済的価値について信が置けないと言い出します。
それに対し前田少佐は、この問題は牡蠣の存在を点検した後、決める事に意見が一致していたのに何故今さら反対するのかと私見を述べると、窮地の立つ仏委員に英委員が仲裁する態度に出ると、前田少佐は英仏が前言を翻して強いて国境線を変更するならば、飽くまでも奮闘する覚悟でしたが、結局委員会は妥協案を承認して牡蠣畑を認めることで国境線上の決定はほぼ終了し、国境地図の完成をまって翌年2月パリで次回の会議を行うことになります。
大正11年(1922)7月。休会になっていたデンマーク・ドイツ国境画定委員会がコペンハーゲンで開催され、前回の牡蠣畑を認めることで国境線上が決定にしたのに対し、英国政府から抗議が出され、領海の分界線は地図上に示す必要なしとする英国委員の意見が排除され、図上に示すかとになり決着をみます。
この会議では、英委員の傲然とした態度を不快に感じながら、堂々と論争に応じたことがよほど痛快だったのか、日記には「本日の英国の態度、コミッションリダクション(委員会)を無視し、予大いに之を不快とし、事ごとに正義をもって抑制し、委員会の威権を維持しえているは、快事なりき」と記されています。
大正12年(1923)4月には、渼子夫人が病歿。8月には近衛歩兵第四連隊長に補され、9月1日の関東大震災では本郷方面警戒担当に任じられます。大正13年(1924)12月酒井菊子嬢と婚約、翌14年(1925)2月7日結婚します。昭和2年(1927)7月46歳で駐英大使館附武官に補され3度目の海外勤務に就きます。昭和3年(1928)8月陸軍歩兵大佐に任じられます。その間も国内を視察、行事、講演に歩いています。
昭和6年(1931)8月、参謀本部第四部課長(戦史課長)に、昭和8年(1933)3月48歳で陸軍少将に任じられています。その間、陸軍大学校兵学教官、歩兵第二旅団長、陸軍大学校長を歴任。昭和11年(1936)12月1日に陸軍中将に任じられます。その頃、満州事変以来、日支関係は日に日に悪化し、ついに昭和12年(1937)7月盧溝橋事件が勃発します。
その年の8月1日に前田中将は、第八師団長に親補され、弘前に着任しますが、10月6日に第八師団の満州派遣が発令され、駐屯地掖河(えきが)に着き東満国境警備に就きます。
(親補職:親任官となるのは陸海軍大将で、代わりに親任官相当の職として宮中において親補式を以て補職される「親補職」というのが設けられていました。)
(つづく)
参考文献:「最後の殿様ボルネオに死す」藤島泰輔著・“文芸春秋”昭和43年2月号「前田利為(軍人編)前田利為候伝記編纂委員会・平成3年10月発行。他