【金沢・富岡・東京】
前田利為候は、明治18年(1885)6月5日旧七日市藩前田利昭の5男として生まれ、初名は茂といい分家から本家の養子になります。養父の急死により、明治33年(1900)数え年16の時に家督を継ぎます。明冶39年(1906)には、養父利嗣公長女渼子(なみこ)と結婚。本人は政治家を志しますが、明冶天皇の「皇族や華族の子弟は、軍人として国の護りに付くように」との仰せで、やむなく学習院から陸軍士官学校(17期)に進みます。
(七日市藩は、加賀藩祖前田利家公の5男前田利孝が、利家公死後、芳春院とともに人質として幼年期を江戸で過ごします。大坂の陣では徳川方として戦功をあげたことにより、元和2年(1616)甘楽郡内に1万石の所領を幕府より拝領したのが立藩の始まりです。)
陸士では東条英機と同期で、利為候は陸軍大学校卒業時抜群の成績で軍刀拝受という名誉を受けます。因みの陸士同期の東条は、陸大では利為候に4年遅れをとっています。利為候は東條を「頭が悪くて先が見えない男」と批評し、東條は利為候を「世間知らずの殿様に何がわかるか」と反発していたそうですが、利為候は首相になった東條を「宰相の器ではない。あれでは国を滅ぼす」と危ぶんだといわれています。
(七日市藩の系図・利為候(茂)は12代利昭の5男)
(当時の陸大受験資格は、通常陸士卒業後2年目から約10年間とし、連隊長の推薦が必要で、入学試験は初審、再審と2回行なわれ、初審は通常4月ごろ全国一斉に筆記試験が実施され8月ごろ合格者100名を発表、12月上旬ごろ初審合格者を陸軍大学校に集め、将来国軍を担う将官としての資格ありと認められた50名が採用された。)
利為候は、明治44年(1911) 陸軍大学校(23期)を卒業すると大正2年(1913)ドイツに私費留学します。開戦前のドイツを観察し、翌年からオースリアなどバルガン方面に視察旅行へ、大戦勃発でドイツを去りその後イギリスに渡っています。
イギリスでは3度の従軍で戦線視察の経験、戦線と配備の概況、陣地設備の実況、飛行機及び搭載武器、迫撃砲、無線通信、毒ガスなど新兵器と新戦法など多くの事を吸収しています。帰国後は、参謀本部員として陸軍大学校兵学教官に、また、軍以外の各界各層に求められれば進んで講演をおこなっています。
(大正6年6月頃までに、石川県でも金沢偕行社、金沢市会議事堂、金沢第一中学校、七尾中学校で”ドイツの武力に就いて“”現戦争と国民の覚悟””現戦争と青年の覚悟“を、高岡市では野外で学生に対して講演をおこなっています。)
(金沢にはよく訪れています)
4年有余に及んだ、第一次世界大戦も大正8年(1919)にはベルサイユ平和会議が開催され講和条約が調印され、国際連盟が成立します。大正9年(1920)スペインで開催された国際連盟軍事委員会に空軍代表として伊丹少将と参加、帰ってまもなく少佐に進級します。
当時の利為候の日記には「この度始めて国際連盟の会議に列し、這般の消息をうかがい、感ずる事少なからず、而して、国際連盟が真に世界戦争防止に大いなる信頼を措く能はざること、本連盟の主として英仏の料理しつつある所なること、会議に力あるものは背後に国力の後援を必要とすること」と述べ、国際連盟の本質を指摘し、「語学は実に会議席上至大の武器なりこと」と付け加えています。
(つづく)
参考文献:「最後の殿様ボルネオに死す」藤島泰輔著・“文芸春秋”昭和43年2月号「前田利為(軍人編)前田利為候伝記編纂委員会・平成3年10月発行。他