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16代前田家のお殿様①駒場の「旧前田家本邸」

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【東京都駒場】
先月、観光ボランティアガイドの交流会で上京した際、駒場の旧加賀藩主16代前田利為候が昭和4年に建てた重要文化財「旧前田家本邸」を見学する事ができました。今年、保存整備工事が行われると聞いていたので、諦めていたのですが、工事のための休館は今年7月から約2年間だと聞きコースに組み込まれたお陰で、当時、東洋一と賞賛された豪邸を思いかけず、全く予備知識がなかったのですが見ることが出来ました。



(前田家本邸・タイルは石川県庁(元も今も)と似ている。旧県庁が古い)


当時、お殿様は「欧米諸国を歩いて感じたことは、わが国には賓客を迎える個人の家がないということだ。わたしは贅沢な暮らしをしようと思わないが、国家のために、このような家を一軒ぐらい建ててもよいだろう。将来は国家に寄付してもよいのだ。」といつているそうですが、のちにこのお屋敷は寄付という形ではなく、財産税の物納として国家におさめられ、幾多の変遷を経て、「旧前田家本邸」として一般公開されています。ある意味、お殿様の予言通り国家が国民に代わり公共的役割を果たしています。


(前田利為候ご夫妻)




(旧前田本邸の室内)


この「旧前田家本邸」はイギリスのチューダー様式の洋館です。当時の使用人は136人。その内、奥のご用をする女性が60人いたといわれ、連日華やかな社交の場として使用されていたそうで、 内部には王朝風の装飾が施され外国製の材料で造られた豪華な部屋が多くあり、室内に伝統的な唐草や雛菊をあしらった文様なども見られ、暖房用のダクトが各部屋につながっていたそうです。



(駒場公園として開放され、お花見時期、区民が楽しんでいました。)

邸内には、馬場、テニスコートがあり、母屋の前の芝生はゴルフのドライバーで350ヤードの打ちっ放しもでき、雪が降ると庭の築山でスキーを楽しめたそうです。建設当初の敷地は1万3千坪、建坪は500坪で、戦後、昭和20 年(1945) 連合軍に接収され、昭和26年(1951) リッジウエイ連合軍最高司令官官邸となり、昭和42 年(1967)に 洋館は東京都近代文学博物館として開館します。 昭和50 年(1975) 公園と和館が目黒区に移管され目黒区立駒場公園として開園し現在にいたっています。


(公園になった旧前田家本邸の門)


(御殿にあった煎茶席が、今、金沢の成巽閣にあります。煎茶席は「三華亭」と称し13代藩主斉泰が嘉永年間(1848~54)に江戸本郷の藩邸内に造られたもので、明治4年(1871)頃、東京の根岸にできた藩主住居庭内(異説あり)に移築され、明治30年(1897)頃、東京本郷の前田邸に再び移され、さらに駒場の前田邸に転じ、昭和24年(1949)に成巽閣玄関右手の庭内に移築されています。)





(金沢の成巽閣)


元々、この駒場公園の敷地は、関東大震災後に東京帝大農学部が本郷に移転するために前田邸の敷地と等価交換します。本郷にあった加賀百万石の上屋敷の跡は維新後、明治政府に収公されますが一部残ったところがを前田邸で、16代のお殿様前田利為候が相続したのはその土地でした。今の東大本郷キャンパスの東大総合博物館・東洋文化研究所付近の壮大な敷地で、天皇を迎えるためその敷地に明治38年(1905)和館を明治40年(1907)に洋館を建設します。


東京大学赤門)

大正15年(1926)利為候は、敷地・邸宅を東京帝国大学に譲り、代替地として当時東京帝大農学部が所在していた駒場校地の一部を取得し、ここに邸宅を新築したもので、本郷の旧邸(和館・洋館)は東大の迎賓館「懐徳館」としてしばらく使用されていましたが、昭和20年(1945)の東京大空襲により全壊・全焼します。


(つづく)


参考文献:「最後の殿様ボルネオに死す」藤島泰輔著・“文芸春秋”昭和43年2月号他


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