【板橋区・大田区】
野口遵(したがう)は、明治6年(1873)に生まれ、第二次世界大戦終結の1年前、昭和19年(1944)に死亡していますが、野口家の墓は、東京の大田区池上本門寺の五重塔の北東にあり、金沢でも日蓮宗のお寺が菩提寺で、日蓮宗中興の祖といわれている金沢の日蓮宗妙布山立像寺の第22世優陀那院日輝上人が、父の叔父にあたる縁からと思われますが、野口が隆盛を誇っていた昭和13年(1938)の建立で、墓域は他にぬきんでて堂々としているそうです。
(第22世優陀那院日輝上人寛政12年(1800)~安政6年(1859))
野口遵の父は、加賀八家横山氏の40俵(20石)の家臣で、金沢生まれの野口寛左衛門(藩士江守氏の臣)の長男です。諱は之布(ゆきのぶ)通称斧吉・磊蔵(らいぞう)、字は士政、雅号は犀陽。横山氏の儒臣でしたが、幕末に江戸の昌平黌に学び、長州の高杉晋作と机を並べたといいます。
(金沢城内)
加賀藩に帰ってから漢学者として藩の子弟の教育に携わりながら、加賀藩勤王党の先駆として福岡惣助ら同志と正義派を唱え勤王派に加わり、“禁門の変”で佐幕に決し藩の命によって禁獄終身に処せられ、3年7ヶ月間、座敷牢に閉じ込められまず。
(福岡惣助の墓所のある承証寺)
(明治元年(1868)の大赦令によって、ようやく出獄。北越戦争に藩の探偵として従軍し、後、文部省・司法省に出仕。明冶13年(1880)に前田家の漢学教授、加賀藩史編纂に従事します。)
福岡惣助について
寺町台”寺活協議会の寺院“承証寺②
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12030571228.html
父の叔父にあたる日揮上人は、江戸時代後期の金沢の日蓮宗妙布山立像寺の僧侶第22代優陀那院日輝上人で、京都山科檀林(だんりん)で学び、深草の日臨に師事。郷里加賀金沢の立像寺に充洽園(じゅうごうえん)を開きます。教学の研究と後進の育成に務め日蓮宗僧侶の法要作法は、日揮上人の「充洽園礼誦儀記」が基本となっているそうです。
(当時、充洽園には、全国から80人ぐらいの坊さんだけでなく一般の人も寄宿して学んでいたといいます。その頃の逸話に、寄宿生活の中でお金が紛失し、寄宿生の中から犯人が見つかり、その時、学友達は犯人を破門するよう上人に迫りました。上人は“それであれば犯人は破門しないが、みんなを破門する”と言われました。そして“犯人にこそ教えが必要でわたしが見放したら誰がその者を導くのだ”といったと伝えられています。)
明治維新の時、日蓮宗も廃仏毀釈により存続の危機が迫り、その時、日蓮宗を存続させるために白羽の矢が立った教学が、主流の有力な諸本山や檀林の教学ではなく金沢の充洽園の優陀那日輝上人の教学だったといわれています。
父は数少ない加賀藩の勤皇の志士、父の叔父は幕末の立派な宗教で教育者。生後間もなく、母の幸に抱かれて上京し、当時、本郷弓町にあつた前田家の長屋で少年時代をおくっています。父からは士族の子としてのエリート意識や使命感を子供の頃から家庭で吹き込まれていたらしいく元々腕白で、子供の頃から「したがう」と呼ばれるのが嫌いで、父に名を「遵太郎(じゅんたろう)」と改めてもらい幼友達は「じゅんた」とか「じゅん」と呼ばれていたと言われていたようです。
(東大の赤門・元前田家上屋敷)
明治29年(1896)に帝大の電気を卒業していますが、当時の常識からみれば、官庁に入るか、大企業に勤めて、出世コースを歩みそうなのに、今の江ノ島電鉄の運転手をやったり、小さな水力発電の工事に従ったり、シーメンスの東京支店に雇われたり、ほとんど10年間ブラブラしていますが、この間もカーバイドの研究を続けていたそうです。
日清戦争後の産業革命の本格化の時とあって見れば、野口が日本の新しい化学工業のバイオニアの道を歩み通したのは当然でしょうが、明治39年(1906)の「曾木電気」のスタートも新橋で飲んでいた時に、偶然知りあった鹿児島県の資産家と話がはずみ、これがきっかけで、互に折半で出資しようと話が始まったといいます。
しかし、野口遵には、事業を興す元手となる遺産が父から遺されたわけではないので、徒手空拳といえば聞こえはよいが、元々の資金をどのように調達したのか、少々いかがわしいところがあるらしい、最初に設立した「曽木電気」は、資本金は20万円で、自己の負担金は半分の10万円ですから、これをどのように調達したのかよく分りません。
(明治40年当時の10万円といえば、どうみても、今の5、6億円にあたるらしいが、据え付けた発電機は勤めた事もあるドイツのシーメンス社から買ってはいるそうですが支払は済ませていないらしい。)
詳しくは
ドキュメント水俣病事件1873-1995
http://toranomon.cocolog-nifty.com/minamatabyojiken/
参考資料:「近代日本を作った百人」監修大河内一男・大宅壮一・毎日新聞社・昭和40年2月発行ほか