【板橋区】
昭和20年(1945)8 月の敗戦により、今の板橋区加賀を中心とした広大な敷地に軍の建物や構造物が放置されます。東京は戦時中にアメリカ軍の大規模な空襲により多くの建物が焼失したために東京市民は極度の建物不足に陥っていました。そのような中で、放置されたままの二造板橋製造所板橋工場の建物を利用することが考えられるようになり、昭和21年(1946)7 月の土地家屋を国から借り受けるため板橋管財施設利用組合が組織され、学校や研究所、民間会社、病院などが移転されます。
(陸軍二造の建物140号棟が今も残っています。)
現在、加賀藩下屋敷跡の加賀公園には石柱や金沢市と板橋区の友好に基づいた記念碑などが整備されていますが、石神井川の川下へ100mほど行った所に有名な理化学研究所の建物があり、築山の横手は、コンクリートとレンガでできた火薬試験の標的が今も残されています。
(火薬工場は早くより電気軌道を利用)
火薬工場があったところは、当時としては珍しい電気軌動の敷設されていてトロッコ列車線路跡が残っていたらしく、そこは、今、野口研究所の敷地になっています。この野口研究所は、旭化成創業者の野口遵(したがう)が私財を投じて設立した化学の研究開発を行う研究所で、今も当時の火薬工場の施設も残っていて敷地内には試射を行って検査をする為の長い土管を繋いだような試験施設や、弾薬庫、防爆用の土塁、射場などの施設や遺構があるそうです。
(築山の下、トロッコ軌道跡が野口研究所)
実は、その野口研究所の創業者野口遵は、加賀藩所縁の人物であるということから、板橋区と金沢の縁を感じ、野口遵氏について調べてみることにしました。
(野口遵氏)
≪野口遵(したがう)≫
野口 遵(のぐち したがう)は、明治6年(1873)7月26日金沢生まれの日本の実業家。
東京師範学校附属小を経て東京府中学入学。のち乱暴狼藉のいたずらで追い出され、成立学舎を経て明治21年(1888) 第一高等中学校入学。明治29年(1896) 帝国大学工科大学電気工学を卒業した。郡山電灯に技師長格で赴任。明冶31年(1898) シーメンス東京支社に入り、その後、国内、朝鮮に電力、化学、人絹ほか各種会社を設立。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築く「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称されます。チッソの他にも、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者です。昭和19年(1944)1月15日死去。72歳。
(野口研究所)
(朝鮮半島進出後の野口遵は政商で、朝鮮総督府の手厚い庇護の下、鴨緑江水系に赴戦江発電所など大規模な水力発電所をいくつも建設し、咸鏡南道興南(現・咸興市の一部)に巨大なコンビナートを造成しています。さらに、日本軍の進出とともに満州、海南島にまで進出した。森矗昶、鮎川義介などと共に当時、「財界新人三羽烏」として並び称されています。)
野口遵(したがう)は、「おれの全財産はどのぐらいあるか」。昭和15年(1940)2月、野口が京城(現ソウル)で病に倒れたとき、側近をまくら元に呼んで調べさせた後、こう語ったという。
「古い考えかもしれんが、報徳とか報恩ということが、おれの最終の目的だよ。そこでおれ
に一つの考えがある。自分は結局、化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てたい」・・・。
こうして私財3000万円(現在の価値で約300億円)のうち、2500万円で化学工業を調査研究するための「財団法人野口研究所」が設立され、500万円を朝鮮総督府に寄付して「朝鮮奨学会」の原資とします。日本にも古今、富豪と呼ばれる人は数多いが、全財産を投げ出してまで社会貢献を志した例は、あまりないそうです。
(野口研究所は、昭和16年(1941)2月10日。野口遵が、文部大臣より財団法人設立の許可を受け、 研究所を横浜、延岡、興南に開設します。昭和21年(1946)各研究所を東京板橋(現在地)に移転しました。戦前の野口研究所は、アセチレンやイオン交換樹脂の製造と利用といった分野で業績を上げ、戦後も木材化学やプラスチックの研究、森林資源開発の調査などで多くの寄与をしています。)
(つづく)
参考資料:「近代日本を作った百人」監修大河内一男・大宅壮一・毎日新聞社・昭和40年2月発行ほか