【東京都板橋区】
板橋区加賀には、今も敷地面積の広い施設が集中しています。また、町名になっている加賀をはじめ、加賀公園、金沢小学校、金沢橋など現在も金沢にまつわる地名や名称が多く有ります。この地は、前回に書きました加賀藩前田家下屋敷跡で、明治維新後から第二次大戦の敗戦までは陸軍の火薬工場(東京第二陸軍造兵廠板橋工場)として使われていたことから軍の解体後は民間工場、学校、研究施設、そしてマンションなど住宅地などに転用され、その名が残ったのだと思います。
(最近では、マンションなど集合住宅の名称を“加賀”や“金沢”とすると付加価値が上がるらしく、紛らわしいくらい○○○加賀や△△△金沢とカタカナ混じりのマンション名が目立っていました。)
(加賀1丁目のモニュメント)
明治6年(1873)年に陸軍省がこの跡地を買収し、日本初となる黒色火薬の西洋式火薬製造所を開設されます。以後、昭和20年(1945)まで、ここで陸軍が使用する各種火薬や機関銃、大砲などを製造し、最盛期には7,000人の従業員を抱え、周辺にも軍需の民間工場群が集積されていたそうです。
陸軍の一大火薬・兵器工場が加賀に立地するようになるには、操業に必要な広大な土地がまるごと確保できたこと、そして、特に危険物を取り扱うため緩衝地帯を広くとることが必要で、当時は機械の動力が水力に頼らざるを得なかったため、石神井川沿いのこの土地が恰好の立地だったようです。
(石神井川沿のレンガ造りの板橋製造所のモニュメント)
(解説板の一部)
(明冶4年(1871)7月、兵部省はこの土地の一部を火薬製造所の用地とするために明冶政府に引渡しを求めています。その理由に「彼邸ニハ水車モ有之、造兵ノ為便利不少候」と書かれているらしく、石神井川に敷設した水車の動力が圧磨機を動かす上で重要だったため、同4年10月に、この前田家下屋敷の一部を造兵司属地となり火薬製造の建設が始まったそうです。当時は鉄道開通前で、水運や中仙道を使えば、都心の各所や陸軍造兵司本部(現東京ドーム一帯)へのアクセスもよかったという事も伝えられています。)
(加賀西公園の圧磨機の円盤状の石の記念碑の解説板)
また、当時兵部省の造兵部門の長にあたる造兵司正(頭)には、かって加賀藩士で、専門が兵学や科学の佐野鼎(さのかなえ)が就任しており、板橋の前田家下屋敷の事情にも通じていたと思われることから、火薬製造所の選択にも影響を与えた可能性も有るようにいわれています。
≪佐野鼎 (さのかなえ)≫
天保2年(1831)駿河国富士郡生まれ、明治10年(1877)10月24日コレラに罹り47歳で急逝します。通称は貞助(輔)。江戸に出てオランダ式砲術家下曽根金三郎塾に入り19歳で塾頭。のち長崎の海軍伝習所に学び、安政元年(1854)加賀藩に洋式兵学校壮猶館が設立されたとき西洋砲術師範方棟取役。安政7年(万延元年1860)幕府遣米使節に随行「奉使米行航海日記」を著し、文久元年(1861)の遣欧使節にも加わり明治4年(1871)廃藩置県後、金沢藩の洋学・砲術・海洋学の講師から兵部省の造兵司正(頭)になります。
(現存する壮猶館の門)
佐野鼎は、渡欧して教育事情を視察、日本にも欧米なみの学校が必要であると強く感じ、 帰国後 (明治4年(1871)に 共立学校(きょうりゅうがっこう)を創立しますが、佐野鼎が早逝したため、 初代校長には 高橋是清が就任。明治28年(1895)には, 校名を「共立学校」から「東京開成中学校」に変更されます。
(佐野鼎)
幕府が日米修好条約批准のための使節を派遣するという情報が金沢にも聞こえ、佐野鼎は矢も盾もたまらず、これに随従したいと13代藩主前田斉泰公に願いで、使節の従僕という形で遣米使節の一行に加わりアメリカに渡ります。斉泰公は佐野鼎に“百両”の仕度金を渡しています。アメリカでの佐野の見学と勉強はすさまじく、彼の地の新聞種になるほどであったといいます。
佐野鼎は、この時の見聞録を克明にまとめ13代藩主前田斉泰公に献上した「奉使米行航海日記」にくわし書かれているそうです。佐野鼎はアメリカのあらゆる文化施設、機械に関心を持って見学を続けますが、その中でもニューヨークの聾学校に入って感銘を受けます。文明国では聾者にまでコトバを教えていることが、佐野鼎が帰国して英語学校をはじめる動機であったといわれています。また、従来から幕末14代前田慶寧公の「卯辰山開拓」は福澤諭吉の「西洋事情」に触発されたものといわれていますが、福祉施設については、この「奉使米行航海日記」の影響を受けたのではという学者もいます・・・。
(石神井川沿いのことじ灯篭)
参考資料:いたばしまちあるきマップ・徳田寿秋著「海を渡ったサムライたち」―加賀藩海外渡航者群像―、他