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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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板橋の金沢①

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東京都板橋区】
平成20年(2008)7月に金沢市と東京都板橋区が「友好交流都市協定」を締結しました。今回は2回目になりますが、金沢観光ボランティアガイド「まいどさん」と板橋区のボランティアガイド「もてなしたい」との交流会が開催され、板橋のボランティアガイドの皆さんと板橋にある金沢所縁のところを巡り交流を深めてまいりました。



(板橋の「もてなしたい」と交流会)


(私たちのガイドは、交流事業で金沢の「百万石まつり」で武将として行列に参加なさった方で、初対面でしたが、それを聞いただけで親近感が高まりました。)


(真ん中に大きな池がある加賀藩前田家下屋敷平尾邸)

(グレーのところが旧加賀藩前田家下屋敷・21万7千坪)


金沢と板橋の結びつきは、江戸時代に遡ります。現在の 加賀1、2丁目、板橋3、4丁目一体が藩政期には加賀藩前田家下屋敷平尾邸があったところです。延宝7年(1679)2月、加賀藩前田家5代前田綱紀公が将軍家綱から6万坪を拝領したのが始まりで、その後数回の替地拝領を経て最終的に、21万7千坪余りになります。



(北国新聞2016・3月29日)


屋敷の中央には、石神井川と千川用水の水を利用した大池(今は埋めれている)が横たわり池泉回遊式の大名庭園で、幕末、ここで開かれた園遊会に招かれた会津藩主・松平容保は邸内の様子を「まるで桃源郷のようだ!」といったといわれています。


(築山の下にある加賀藩下屋敷の石碑)

(下屋敷の建物)


現在は、広大な土地の加賀藩下屋敷の面影は殆んど残っていませんが、加賀公園といわれるとこには築山の一部が残り、昭和の初めまでは“東京府北豊島郡大字下板橋字金沢”と言われ、加賀藩前田家下屋敷の殆どの地域を「金沢」と呼んでいたそうです。


(加賀藩前田家は。上屋敷は藩主やその家族が住み、中屋敷は隠居した藩主や 嗣子などの住まい、下屋敷は別荘として使われていたそうです。)



(築山)


下屋敷も明治になると、金沢藩に帰属して藩主前田氏が藩知事として管理しますが、明治4年(1871)7月には廃藩置県により石川県になり、その後下屋敷は石川県から浦和県に渡され11月には東京府に編入されます。



(築山から東京スカイツルーが見える)


明治2年(1869年)2月、新政府は、関が原で西軍に付いて破れた八丈島に流された宇喜多家が罪を免じられ、所縁の前田家に宇喜多孫九郎一族の扶助を命じられ、翌年には宇喜多家(浮田家)子孫の8家75人が八丈島を離れ、前田家に身を寄せています。



(ガイドさんが小松了従の話をしました。)


その後、明治政府は宇喜多家に、旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸のうち2万坪の敷地を加賀出身の小松了従が加賀藩から開墾の許可を受けており、小松了従が世話人になり八丈島から来た宇喜多秀家の子孫も、明治3年(1870)に東京府より大蔵省に出し許可され、開墾を始めます。しかし、宇喜多の一族の多くが生活環境の変化になじめず八丈島に帰島したといいます。



(観明寺の門は下屋敷から移築した赤門)

(東光寺の宇喜多秀家供養塔)


ガイドの方に案内して頂いた室町時代の創建と伝えられる真言宗の観明寺は、加賀藩下屋敷の赤門と稲荷神社が移築されたといわれていました。また、同じ室町時代の創建と伝えられる浄土宗の東光寺には、宇喜多秀家供養塔があり、宇喜多同族会によって祀られていました。この塔は前田家・宇喜多(浮田)家の歴史と、両家の板橋区との関わりを物語る貴重な遺産として、平成10年度(1998)に板橋区の登録有形文化財になります。



参考資料:いたばしまちあるきマップ他


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