Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

巽御殿から成巽閣(せいそんかく)②

$
0
0

【金沢・出羽町】
成巽閣は、昭和13年(1938)7月文部省の国宝指定を受け、保存に重大な責任がのし掛かり、当時の状況から前田家は各事業所の有機的統廃合並びに付近の住民と連帯強化策が推進されます。その一還として昭和16年(1941)成巽閣の管理を侯爵前田家育徳財団に所有権は侯爵前田家のままにして委託することになります。


(前田家の各事業所とは、明冶以来、士族の授産を目的に北海道の前田農場から始まる林業事業、東京湾の海面埋立事業、そして文化事業として教育・編纂・文庫の創設など15代利嗣候以来、16代利為候、17代利建候、18代利祐氏にまたがる諸事業があります。)



(成巽閣、兼六園からの入口)


戦時中、現当主18代利祐氏の曾祖母に当てる前田家15代利嗣候の朗子夫人は、昭和19年春より成巽閣に疎開中で昭和21年5月末の発病し、昭和24年11月15日80歳で逝去。葬儀万端はこちらで執行し、付き添いの方々が25年3月までに退去したので建物全体が公開活用することができるようになります。


(現当主18代利祐氏も一時、成巽閣に疎開され、広坂に有った師範学校の小学校に通われたと地元の同窓生が何かの本に書かれているのを見たことがあります。)




(兼六園側の庭)


昭和24年(1949)4月25日戦後の諸状況の変化により「財団法人侯爵前田家育徳財団寄付行為」の変更が許可され、財団法人前田育徳会と改称されます。成巽閣は、戦前侯爵前田家の財政支援で運営されていましたが、敗戦で前田家は農地解放や8割近い財産税のため、成巽閣の面倒が見きれなくなり、一時、手放す話も出て、やむなく当時の職員により独立採算制をとり、観覧料や結婚式場に貸したりして維持されます。昭和35年(1960)に、これを制度的に確かなものにしようと財団法人「成巽閣保存会」を作りました。


(成巽閣は、昭和25年(1950)文化財保護法により、8月29日から重要文化財に指定されます。戦前の旧制度では、現在の「重要文化財」に相当するものがすべて「国宝」と称されています。現在は、重要文化財のうち「世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」が国宝に指定され「国宝及び重要文化財指定基準」によれば、重要文化財のうち「製作が極めて優れ、かつ、文化史的意義の特に深いもの」「学術的価値が極めて高く、かつ、歴史上極めて意義の深いもの」を国宝に指定することができ、法的には国宝も重要文化財の一種で、戦前には「国宝」であったものが戦後「重要文化財」に「格下げ」されたと解釈するのは誤りだそうです。)



(塀と蔵)


(兼六園側の塀)


しかし、財団法人「成巽閣保存会」は運営権を持つだけで所有権はまだ前田家にありました。10年後の昭和45年(1970)に前田家から所有権を寄付してもらい、同時に財団名の「保存会」をはずして財団法人「成巽閣」となります。



(遠景)


この時期、成巽閣にあった蔵品を前田家、成巽閣、前田育徳会に分けられ、昭和57年(1982)10月1日に前田育徳会と成巽閣との間に、「文化財貸借に関する契約書」が作成し、展示・保管・利用などの条件が定められます。


(つづく)


参考文献:「前田利為と尊経閣文庫図録」平成10年2月、石川県立美術館編集発行・「吉竹寛一餘香」平成6年6月13日 印刷ヨシダ印刷株式会社・「兼六園全史」兼六園全史編纂委員会石川県公園事務所、 兼六園観光協会、昭和51年12月発行

金沢 加賀前田家の奥方御殿 成巽閣
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwjNktKW4dvMAhUDKpQKHbbtCd8QFggcMAA&url=http%3A%2F%2Fwww.seisonkaku.com%2F&usg=AFQjCNHPZX1qTO0quQnMp_MfUUEKQptreA&sig2=UF57CBlDZ2RLlJCosoUbZQ


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles