【金沢・出羽町】
成巽閣は、文久3年(1863)7月、13代藩主斉泰公が母堂(義母)真龍院の隠居所として、竹沢御殿の一部を移し巽御殿として建てられたもので、建立当初は1,500坪(今は約500坪)で、1階は武家書院様式、2階は数奇屋風書院造り、一つの棟に二つの建築様式が組み込まれていて幕末の大名建築としては貴重な建物です。
(明冶3年(1870)まで真龍院はご存命で、ここ巽御殿にお住みになり、享年84歳でお亡くなりになります。)
明治の博覧会と博物館―金沢
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11750044316.html
維新後は、大政奉還で一切が政府に帰しますが、廃藩置県で県の管理となります。明冶3年(1870)から明冶41年(1908)まで県が所有し学校や博物館に利用されますが、当時は国民のすべてが欧米文明に心酔するあまり博物館時代には柱や長押に釘を打ち、畳を起し下駄履きで出入りするなど、日本の優れた文化がないがしろにされ建物も乱暴に取扱われていたそうです。
(明冶20年(1887)10月、文部大臣森有礼が午前の四高の開校式に引き続き午後の工業学校の開校式に成巽閣に訪れ、取扱いが杜撰として県に注言し、その後、建物への認識が改められたと伝えられています。)
(今は杮葺の屋根)
建物の屋根は元来草槙材(くさまき)の杮葺(こけらぶき)でしたが、15~6年もすれば腐ってしまうので、古瓦に葺き換えたため、屋根の荷重がふえ、成巽閣の特徴ともいえるハネ構造の長椽(ながたるき)を圧し、冬の1m以上積雪には雨戸の開閉を阻害する状態ででした。また、修理費捻出のため、銅の分厚い雨どいを売却したと聞きます。
明冶42年(1909)東宮殿下、後の大正天皇が北陸においでになることが決まり、当時、金沢にはあいにくホテルとか適当な旅館がなく、そこで県は、それまで金のかかる成巽閣を思い切って前田家に返し、宿泊所問題と成巽閣の赤字を一挙の解消しょうします。
(前田家も以前から東宮殿下の行啓を奉請していたので、異論のはずはなく、以後、再び前田家の所有となります。)
(警備のため造られたレンガ塀)
(明冶42年に警備のため造られたレンガ塀65間(約200m)の1部が兼六園小立野口に残っています。当時工事費用は3,338円(今なら約3千4百万円か?)とか)
大正13年(1924)11月にも、陸軍大演習のため摂政宮殿下(昭和天皇)が来沢され、100人余りの随員とともに成巽閣にお泊まりになられました。成巽閣が大本営になるわけですから警備は厳重で、外側は市内の警察、その内側は近衛部隊、皇宮警察などが幾重にも取り囲んで警備が固められたと伝えられています。
(館内の案内板)
(余談:殿下や随員の食事、風呂などのお世話を成巽閣の方ですることになり、献立は予算に合わせ成巽閣側で考え、宮内省の承認をえたもので、随員でも上のほうの人はそでもなかったのですが、随行した雇員、運転手、別当らが「こんなものは食えるか」ということで、料理人はほとほと弱ったと伝えられています。また、演習時、下検分に来た運転手や別当が、防弾装置で重い車だから木造の橋では万が一の事があったらどうするのだ!!とイチャモンをつけ、県の役人を困らせ、結局、知事の機密費で、ひがしやにしの茶屋に連れて行くやら、金を渡すなどをしたと、警察の署長の談として残っているそうです。)
(つづく)
参考文献:「前田利為と尊経閣文庫図録」平成10年2月、石川県立美術館編集発行・「吉竹寛一餘香」平成6年6月13日 印刷ヨシダ印刷株式会社・「兼六園全史」兼六園全史編纂委員会石川県公園事務所、 兼六園観光協会、昭和51年12月発行