【東京・目黒→金沢】
満州事変以来、時局は年を追うごとに複雑で、かつ危機的様相を深め、昭和12年(1937)帝国議会は軍備調達の必要から画期的増税案を上程します。統制経済の強化により国防国家建設が急がれ、その前途に前田家の公益事業としての寄付や貴重な蔵品などへの課税が必至で、さらには個人的所有も困難になることが予想されるようになります。
(駒場の旧前田家本邸の門)
(隣にある前田育徳会尊経閣文庫)
そのような情勢に、利為候は昭和12年(1937)2月4日評議会を招集し、育徳財団の寄付行為などを改定すること、古美術品や什宝を無償で預かり保管すること、図書の編纂・出版と、従来侯爵家において公益のためにしてきた寄付金を財団が行うことなどの改編に関する提案し評議を要請しました。
(前田育徳会の本館と倉庫)
当時の評議員は、清水澄他9人でしたが、審議事項は前田家基本に関する問題であり、時局の前途も測りがたい状況であったため、各評議員は英智を絞り激論を闘わします。この提案を実施するためには「図書館、倉庫及び敷地をこの際財団に寄付するべし」とする意見もでて、前田家と財団との関連の条文化並びに認可申請書の整備を待って、改めて審議をすることになります。
昭和12年(1937)9月財団改正に関する評議会は評議員並びに財団役員全員出席のもとに開催されます。当時、シナ事変が勃発。利為候は第八師団長として弘前に赴任し、時局は益々緊迫化します。評議会は緊張裡に議事が進められ、評議会の決議を得で公益法人前田育徳財団は、「財団法人侯爵前田家育徳財団」として、国家的財産である前田家所蔵古文書・古書籍及び古美術品など永久保存態勢確立へ大きく前進しました。
シナ事変突入以後の日本は世界的孤立の中で軍備拡充から、戦略物資の輸入備蓄のため資金調達が行われ、昭和13年(1938)7月政府は財政強化策として金の政府買上を断行します。金盃・小判・金製品の美術骨董品などを売戻しを条件付に買上げ、戦勝の後、現品売戻しまで原型のまま日本銀行に無料保管するというもので強制的でした。
評議会では「・・・時価12万円(今の約5億円)は、その間運用して利殖し得られるのみならず、国策のそうことで、極めて良好な策」と利為候に上申します。利為候は危惧の念を持ちながら「重要美術品にして価値ある蒐集品を除く」として、評議会の議決をいれ国策に協力することにしています。
(成巽閣の案内板)
売却は11月1日古金貨並びに金製品など384点、13,743グラム余に達しましたが、時局は大東亜戦争に発展し、利為候は戦死、敗戦。多くはついに2度と戻ることはなく、国家の命令とはいえ古金貨などは貴重な財宝は散逸してしまいました。
(成巽閣)
時局の緊迫化は年とともに激しくなり、物的窮迫とともに人も働ける労働力は軍隊や軍需産業へ召集され、前田家でも家職員は激減し、昭和15年(1940)頃には、往時の140名内外から70名前後の老人婦女子になり、それらの状態から昭和16年(1941)に金沢にある成巽閣の管理を財団法人侯爵前田家育徳財団に委託することになりました。
(成巽閣の裏門(赤門)兼六園口)
(成巽閣は昭和13年(1938)7月に国宝指定(現在は重要文化財)を受け、この保存は重大な責任を伴うもので、委託契約書によると財団法人侯爵前田家育徳財団は侯爵前田利為より委託を受けた成巽閣の旧態を損傷することがないよう細心の注意をもって管理し、管理に要する修理保存費・公租公課・人件費など一切の経費は、財団法人侯爵前田家育徳財団が負担するもとすると記されています。因みに、土地3,777坪45、建物は本館・洋館・居宅・土蔵及倉庫592坪97)
財団法人侯爵前田家育徳財団の名称は昭和24年4月25日「財団法人前田育徳会」に改めたられ現在に至っています。
参考文献:「前田利為」前田利為候伝記編纂委員会・昭和61年4月発行他