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公益法人前田育徳財団③誕生

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【東京・本郷→駒場】
公益法人前田育徳財団は、大正14年(1926)2月26日に許可され、3月1日には、利為候は財団設立のために50万円(今の約20億円か?)を寄付し、3月13日東京区裁判所の登記が完了し財団が発足。初代の理事長は清水澄氏で理事4氏、幹事2氏、相談役3氏が就任します。法人は昭和12年(1937)「侯爵前田家育徳財団」さらに昭和24年(1949)「前田育徳会」と名称が変わります。「育徳」の名は本郷の前田家上屋敷にあった庭園「育徳園」に由来するそうです。


(駒場の前田育徳会)


(初代理事長清水澄は金沢出身の憲法学者。大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講し、行政裁判所長官、枢密院顧問官・副議長を経て、昭和21年(1946)6月13日最後の枢密院議長に任ぜられますが、昭和22年(1947)5月3日に日本国憲法が施行された後の昭和22年9月25日、日本の国体の危機を憂い熱海錦ヶ浦海岸から投身自殺を遂げました。)



(金沢・東山の清水澄氏の生家跡)


かくして利為候の20有余年来の図書館建設の夢は、利為候の理想とは程遠いものでありましたが前田育徳財団という形でまずは第一歩を踏みだします。そして、昭和2年(1927)7月、利為候は駐英大使館付武官を拝命し9月イギリスに出発します。


(駒場の前田本邸)

昭和3年(1928)かねてより建設中の前田家駒場邸内に育徳財団用の建物が完成し、4月11日育徳財団は本郷より移転します。移転当初は前田家図書館一棟と倉庫一棟が前田家無償貸与され、財団設立に先立ち着手された、古書籍、古文書、図書の複製事業が本格的に開始し、利為候がヨーロッパから帰朝の昭和5年(1930)9月までに「古語拾遺」「土佐日記」「古今集」など13の珍貴な古書を複製し「尊経閣叢刊」として刊行しています。



(駒場の前田本邸和館)


利為候が強引に推し進めた蔵器処分にからみ、世間や評議員・旧藩士の批判は厳しく、それに対し利為候は処分金の使い途を図書館・美術館建設事業に限定し、それ以外の流用は固く禁止し、財団建設資金の残りの資金で古文書・美術品などの蒐集に当て、財団の拡充で図書館・美術館の開設の意欲を燃やし、その蒐集の事実を持って諸批判に応え、潔白を証明することに意を用います。


(利為候の図書館・美術館建設は、家職員・評議員や一部の旧藩士などに地位欲・名誉欲あるいは道楽などのためと誤解されていましたが、利為候の真意は国益奉公・祖先遺業を広げるものでした。)


(金沢城の櫓)


大正14年(1925)から昭和3年(1928)までに蒐集した主のものは、わが国現存2点のうち1つという王義之の「孔侍中帖」など6種、300数十点の国内における貴重な逸品を蒐集しています。


他に“前田利為候爵③世界屈指のコレクション”にも書きましたイギリス在任中に蒐集した世界の偉人の肉筆212点やルノアールやマックベイの著名な画家の作品、ポルトガルの古文書、17世紀の「日本地図」など、記録されていないものも含めると相当数が集めています。


(変ったところではアフリカの首飾りの蜻蛉玉(とんぼだま)に興味を持ち病みつきのなり、洋の東西の珍品や江戸時代の粋を凝らしたものなど、500種類、約15万円(今の約6億円)だといわれています。)



(金沢城の二ノ丸跡)



利為候は、育徳財団の拡充、美術館の建設など年来の願望を達成すべく帰国しますが、思想・経済界の混乱から皇居を守る大任を仰せつかり、その目的を達成しないまま、昭和6年(1936)満州事変の勃発により、内外の情勢が急転し企図は見送らなければならなくなります。


(つづく)


参考文献:「前田利為」前田利為候伝記編纂委員会・昭和61年4月発行他


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