【東京・本郷→駒場】
大正2年(1913)9月、利為候は第1回渡欧留学に発ちます。イギリス・フランス・ドイツ・イタリアその他第一次欧州大戦交戦国の文化財保護の状況を視察し、文化財保護の見地からも図書館・美術館建設の必要性をいよいよ切実なものと考えるようになります。
大正8年(1919)2月、家政相談役の早川千吉郎氏(旧加賀藩出身、当時三井銀行常務)や学事顧問の織田小覚氏に図書館・美術館建設や所蔵品などの総合政策の意見を求め、井上如苞、北条時敬両氏に公益事業の起案を依嘱し、これを評議会に諮りますが、第一次世界大戦後の不況を理由に、またもや時期尚早として実現に至りません。しかし、利為候はさらに古文書・美術品の蒐集に当たり、大正2年より12年まで147点の購入または複製をしています。
(井上如苞:旧加賀藩出身・前田候爵家の家扶。北条時敬:旧加賀藩出身・四高など旧制の高校の校長や東北帝大総長や学習院院長を歴任、貴族院議員)
翌大正9年(1920)2月再び渡欧した利為候は、戦後の欧州諸国を歴訪し、各国文化財毀損の状況、戦後の文化財保護政策などをつぶさに見学し、美術館の建築様式や保存並びに運営施策などに至るまで研究を重ね、帰朝後は万難を排して実現を期する決心を固めます。
大正12年(1923)8月フランスより帰朝した利為候は、再び家政刷新の断行を決意し、その一環として「什器図書整理委員」を任命しますが、その後9月1日に襲った関東大震災は、前田家に文化的蔵器、図書など収蔵・保存・利用などについて問題を投げ掛けます。
利為候は、考えたあげく整理委員に対し「保存ノ価値、生活上ノ要否二基キ不要什器、図書類ノ早急ナル調査並ニ買却」を指示します。しかし、前田家300年の蓄積された所蔵品の処分は、家職員ならびに旧家臣にとって重大で深刻な問題で、利為候にとっては襲爵以来の大波瀾でした。その波瀾に対処した経験が、後に前田家当主としても人間利為としても重大な転機となりました。
その蔵器処分については、図書館・美術館建設計画が財政問題で賛同を得られなかったこと、図書館・美術館が出来れば有用蔵器や図書類の保存管理を確実にするため不用なものは処分しておくこと、そして、関東大震災から学んだ「備えあれば憂いなし」の態勢を確立するためなどですが、評議員や家職員は、理由のいかんに問わず、真っ向からの反対で、利為候の時代即応態勢の構築という大局的考察と、前田家の危機という保守的感情論の対立は約1年間もつれにもつれます。
しかし調査委員は、利為候の意を体し、大正13年(1924)7月から大正14年7月まで、4回に渡り蔵器処分が実施され、4回の処分蔵器などの総数は不要什器1,297点、売上金128,968円余。貴重蔵器総点数385点、1,091,811円余。総点数1,682点、1,220,780円余です。
(処分された蔵器の主要なものには、関白秀次伝来のものや利休、遠州、織部の茶器類、定家の茶幅ほか、蒔絵、絵画、古筆類、刀剣類などで、入札競売は、前田百万石の門外不出の蔵器公売という事で、爆発的人気を呼び、新聞にも報じられ、入札の2日間で千有余名の関係者がつめ掛けたと伝えられています。)
これにより利為候の永年の宿願であった図書館建設資金準備は、前田家財政を圧迫することなく達成されることになります。
(つづく)
参考文献:「前田利為」前田利為候伝記編纂委員会・昭和61年4月発行他