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公益法人前田育徳財団①設立まで

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【東京・本郷→駒場】
利為候は、結婚記念事業の一環として、明冶39年(1906)5代綱紀公の事蹟の編纂を手掛けますが、その内政、外交、文化事業など多岐にわたる事蹟は、若い利為候の心を捉え、尊敬の念を抱くとともに「第2の綱紀公」を目指すという目標が定まり、明冶40年(1907)7月、綱紀公を中心に歴代藩主が蒐集した膨大な典籍・什器などを公開し、隠れた祖先の偉業を広めることは、国益にも役立つものと考え、図書館・美術館の建設を決意します。



(金沢城石川門)


以来、旅行、演習などのひまを利用し、各地では古今の文庫、図書館などを訪問する一方で、前田家所蔵の図書庫、武器庫、什器庫、重宝能楽庫などを詳細に調査した結果、明冶維新の版籍奉還・廃藩置県などの混乱期に相当大量の古文書類が散逸したことを知ります。




(金沢城菱櫓)


利為候は図書館・美術館建設に先立ち、これらの散逸物の回収にこそ祖先の偉業を押し広めるために重大な責務であるとして、織田、永山はじめ評議員各氏に対し散逸文書などの捜索ならびに回収方法などに関して諮問します。




明冶41年(1908)2月、たまたま金沢の石川県勧業博物館倉庫に、相当量の散逸古文書、図書と見られるものが死蔵されていることを知った利為候は、評議員を派遣し死蔵図書の閲覧を県に許可を求め、前田家旧蔵図書類であることを確認し、本格的調査を開始します。調査が一段落した段階で石川県知事村上義雄氏に書簡を送り死蔵図書の回収を懇請します。

(石川県勧業博物館は明治13年7月に今の成巽閣と隣接したところに開館し、明治42年5月に、今の兼六園の梅林のところに出来た石川県物産陳列館へと継承されます。)



(旧石川県立師範学校)


知事は、9月の県議会に提案し、無償譲渡を決定します。利為候は知事並びに議会に感謝し、県立図書館建設資金として金一万円(約1億円か?)を寄贈し、散逸書籍類の最初の収集に成功します。これに続いて石川県立師範学校にも相当の散逸書籍類が死蔵されているのが判明し、知事の尽力で無償回収しました。

(石川県勧業博物館より回収されたものの総数は748部、石川県立師範学校より回収したもの総数49部(779冊、15帖)、一応成巽閣に収容し、長年月をかけて分類整理し、昭和3年(1928)育徳財団が駒場に移転するのにともない、貴重なもののみ尊経閣文庫に収蔵されたそうです。)

ほか、瑞龍寺や旧加賀藩士など明冶41年(1906)以来、45年(1912)までの4年間に、回収並びに蒐集した尊経閣蔵書および蔵器は、古文書、絵画など607点、図書類1,033部7,970冊、刀剣17振という膨大なもので、いずれも記録に留めたれたもので、記録に残っていないものも相当数あったといわれています。

(「尊経閣蔵書」とは:加賀藩5代藩主前田綱紀公の蔵書名)



(20代の利為候)


明冶45年(1912)2月、利為候は評議員諸氏とともに前田家図書、蔵器庫などを見て歩き、その実情を見せ付け、あらためて図書館・美術館建設に関して諮問します。しかし、当時、日露戦争後の不況が続き、明冶43年の明冶天皇行幸啓を仰いだ直後であったため、財政上の理由から時期尚早として評議会の協賛を得られず、時に利為候27歳。まだまだ評議会の力は強く、自説を強行出来ず機が熟す10数年後、委員会が発足するのを待つ以外にありませんでした。

(つづく)

参考文献:「前田利為」前田利為候伝記編纂委員会・昭和61年4月発行他


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