【東京・目黒区】
「かって、五代綱紀公は和漢の書物を蒐集され、群書類従の原本の多くは前田家尊経閣から出たといわれた。私は幸いに欧米駐在となったから、東西の第一人者といわれる人の肉筆を集めたい」と利為候は洩らしていたといわれていますが、その後、集められた蒐集品は今となっては値のつけられない世界屈指のものである事は確実で、このコレクションが大勢の人の目に触れたのは、利為候が帰朝後に開かれた展覧会一度きりだと、作家藤島泰輔氏が「文藝春秋」昭和43年2月号の“けたはずれ日本人列伝「最後の殿様ボルネオに死す」”書かれています。
(最後の殿様ボルネオに死す・「文藝春秋」昭和43年2月号)
その「最後の殿様ボルネオに死す」には、「昭和5年(1930)以降、世界の音楽研究家が行方を捜していたショパンの『マズルカ・ハ長調作品33-3』の原譜と未発表の手紙が17日(昭和41年10月)東京で発見された・・・」と当時の新聞に掲載さられたと記されています。
この貴重な資料は、故前田利為候爵未亡人菊子さんの自宅に保存されていたもので、昭和5年(1930)ベルリンで競売されたものを購入し、日本に持ち帰ったものだそうで、この原譜や手紙のコピーをもってボーランドに飛んだ日本のショパン研究家よると、あちらでも「まさか日本にあったとは・・・」と驚いていたと書かれています。
(旧前田家本邸門)
実のところ、この原譜や手紙は、利為候のコレクションにとって、ほんの一部に過ぎないそうで、当時、藤島泰輔氏が駒場の前田育徳会の訪ね、未亡人自らの手で開いて戴いた門外不出のコレクションの拝見記によると、それはそれは厳重に保管されていたそうで、8つの大きな箱に、古今東西の偉大な王、政治家、芸術家の肉筆が装丁されぎっしりと埋められていたと書かれています。
利為候は、昭和2年(1927)英国大使館付武官になります。その頃、松平大使は会津、島津海軍武官は薩摩、前田家は加賀と大名のオンパレードで、英国の社交界も日本の貴族外交官に注目して迎えられ、雑誌などは競って夫人の写真が掲載されたそうです。
その頃、利為候夫妻が、ロンドンデリー候爵の招待で、領地のマウントスチュワートで数日を過したとき、エリザベス女王の叔父にあたるグロスター公と一緒で、朝から晩まで、乗馬、ゴルフ、水泳の日々だったそうで、そのような生活の中で、利為候は世界の偉人の肉筆の蒐集を思い立ったといいます。
(駒場旧前田家本邸)
さすがロンドンです。マックスブラザースという権威のある専門店があり、利為候はこの店を通し、ヨーロッパのどこかでめざす偉人のものが出ると必ず競売に参加したといいます。当時、1ポンドが10円だったそうですが、未亡人をはじめ誰も買値を覚えていないというのが前田家らしいところですが、ひたすら買って買って買いまくったといいます。
(明治の金沢城石川門)
これは松方コレクションのように世間に出なかったのは、内容が地味だったこともありますが、前田家は松方家のように破産しなかったことによるもので、前田家には旧家臣の厚味がいまだにあり、彼らは百万石の遺産や利為候の蒐集品も含め、財団管理にして強固の守っていて、不運がついて回った利為候の最大の幸運は、彼の蒐集品を最後まで守り通した人々がいたことであると作家藤島泰輔氏はお書きになっています。
(つづく)
参考文献:「最後の殿様ボルネオに死す」藤島泰輔著・“文芸春秋”昭和43年2月号他