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戦後の成巽閣②

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【金沢・兼六町】
昭和25年(1950)に「文化財保護法」が制定され、重要文化財に指定されると、入場料が掛らなくなりますが、この免税処置が思いがけない厄介な問題を引き起こします。



(成巽閣の前庭)


(「文化財保護法」が制定法律制定のきっかけは、前年に発生した法隆寺金堂の火災と壁画の損傷で、前回にも書まししたが、従来の「国宝保存法」「史蹟名勝天然紀念物保存法」、重要美術品を認定した「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」を統合した法律です。)


(今の入場料)

入場料収入をめぐり前田家と税務署の間で、毎年いざこざがおこります。税務署では、入場料が前田家の懐に入っているのではという疑いです。勿論成巽閣では、入場料収入はすべて運営、維持費の充てられていましたが、前田家と成巽閣が一体であることから仕方のない面もありました。



(兼六園口)


それで、思い切って成巽閣を前田家から法律的に切り離してしまおうということになり、前にも書きましたが、昭和35年(1960)に「財団法人成巽閣保存会」を造ることになり、用心のため所有権は前田家に残し保存会には運営権だけにしたのだそうです。


(財団法人成巽閣保存会の役員は、理事7人、評議員20人、幹事2人で、理事には前田家当主前田利建氏、広瀬豊作氏(元大蔵大臣)吉竹寛一氏(成巽閣常務理事)他、地元では県知事、金沢市長、東京では元住友本社総理事小倉正恒氏、三菱重工元会長の斯波孝四郎氏等が名を連ねています。)



(柿葺の屋根)


その年の昭和35年(1960)、成巽閣の大修理が行なわれています。今の屋根は、建てられた当時の柿葺になっていますが、その頃、柿葺の代用として参瓦葺より軽量の銅版葺が選ばれ葺き替えられます。


明治に入り桟瓦葺に改修されますが、瓦の加重から柱や軒先がゆがんでしまったものを、昭和35年(1960)から36年(1961)

にかけて銅板葺に葺き替えます。8ヶ月間、成巽閣は入場料収入がありませでしたが、なんら経営には支障がなく修理にかかれたといいます。


(因みに、銅板葺の屋根は広くて1階2階を合わせて358,69坪と大きく,工事費も650万円で、そのうち国庫補助453,4万円、県、市より67,5万円、財団の負担金は129,1万円、この工事完了で、大雪にも憂いなく建物を保存できるようになりまいたが、元来の柿葺の葺き替えは、この後、ずいぶん先まで待たねばなりませんでした。)


また、辰巳長屋の解体修理ですが、もともと辰巳長屋は竹沢御殿の表御門、裏御門を含む辰巳長屋でしたが、文久3年(1863)巽御殿(成巽閣)の建立のとき移築され門脇の長屋として使用されたもので、七十七間の大きなものでしたが三分の一にして現在地に移築したものです。


(辰巳長屋)

明冶9年(1877)に、県に移管され、明冶41年(1908
)9月に再び前田家が所有してから、物置や作業場として修繕補強などをしながら使用されていましたが、基礎は全体に建物が傾斜している状態で沈下し、腰積の切石には隙間が多くなり、柱は木材を折る様に横断線が走り、土台は白蟻にやられるなど散々で、このままでは倒壊の恐れがあり、解体復元の大工事に踏み切ります。


(昭和46年(1971)4月1日に着工、1年後の昭和47年(1972)3月31日に完工します。工事費は22,725,375円。うち、石川県、金沢市より補助金400万円、残りは財団が負担。)


PS 昭和の住所変更にさいし、出羽町から兼六町の変更されました。


参考文献:「吉竹寛一餘香」平成6年6月13日 印刷ヨシダ印刷株式会社ほか


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