【金沢・犀川、浅野川】
氏家榮太郎著「昔の金沢」によると“夏日炎暑の候”といいますから7月今頃の季節、今では残ってはいませんが、昭和の始め頃まで犀川や浅野川の川原で、金沢の名物「鮴汁会」が開催され、全国随一の行事として紹介されています。
(鮴は獲れないけど鮎は獲れる浅野川)
藩政期、「鮴汁会(ごりじるかい)」は、あらかじめ鍋、味噌を用意し飯はめいめい持ち寄り川原で炊く催しで、武芸道場の同志が犀川や浅野川の川原に集い、竹製のブツタイという漁具と押板を持って1組2人づつ数組に分かれて鮴(ごり)を獲り、味噌汁に炊いて啜り、ゲップが出るくらいにたくさん飲み食いし、日頃の労を慰安したものだそうで、この慣習が昭和の始めまで警察署や青年団、軍人に伝わっていたそうです。
(よく似た行事、東北の「芋煮会」は今も残っていますが、これは同じ川原でも秋、また、冬の夜、昔、武芸の弟子が集まり「めった汁会」というのがあったらしい、1品と飯を持ち寄るものですが、滅多やたらに何でも入れるから「滅多汁」というのだそうですが、時には蛙、蛇などが入っていても分らなという闇鍋、そんなものも有ったと伝えられています。)
今は、「鮴汁会」も「鮴漁」もありません。5年前まで浅野川に鮴(ごり)専門店がありましたが今は残念ながら廃業してしました。昭和の初め頃までは盛んに鮴漁が行われ〝鮴呼び“といい金沢の風物詩となっていました。犀川も浅野川も鮴の生育環境が変わり昭和の中頃から漁獲量が減少し、今は”鮴呼び“の姿はありませんが、金沢で鮴は、高級で貴重な食材になっています。
(金沢の郷土料理には欠かせない鮴は、犀川や浅野川で獲れるカジカ科の鮖(かじか)を「鮴(ごり)」といいます。また、河北潟で獲れるハゼ科のウキゴリもまとめて“鮴(ごり)“と呼んでいるそうです。)
(鮴)
鮴は、川では軽くて浮いてしまうので、小石を飲み込んで、川底の石の下で休むことから、「鮴」と書くらしい、また、食べるとき小石を噛みゴリというので、鮖(かじか)と書いてごりというそうです。吸盤状の腹ビレで川底にへばりつくように生息するため、鮴漁の際には網が川底を削るように、力を込めて引く必要があり、この漁法では、抵抗があるところを強引に推し進めるという意味の「ごり押し」の語源となっているという説もあります。
犀川の下菊橋(藩政期は橋は無い)辺り、幕末「ごりや」が書かれたものがあり、また、大正期から昭和初期の犀星作品に「ごりや」が書かれていたのを見た記憶があります。それから5年前に廃業した浅野川の「ごりや」は、今も常盤橋袂に老舗の風情を残し佇んでいます。
≪市民が見つけつ金沢再発見≫
七つ橋渡り②午前中「兼六園あゆみ橋」より
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10647150427.html
お殿様お国入り(梅田日記より)
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10758434090.html
(今の犀川)
現在の金沢の郷土料理“鮴”は、刺身や唐揚げにして食べられますが、刺身はさっぱりとした味わいで、唐揚げは一匹丸ごと揚げられ、香ばしい風味を楽しめるといいます。「鮴汁」は、昔と同じかどうかわかれませんが、細めのゴボウの“ささがき”を入れてつくる白味噌仕立てだといいます。
そして、ハゼ科の鮴は、しぐれ煮や、醤油や水飴などを使い甘辛く煮詰めた佃煮にされ、酒の肴やお茶うけにされるなどして、親しまれています。「鮴の佃煮」は、金沢の名産品としても広く知られています。
参考文献:「昔の金沢」氏家榮太郎著 金沢文化協会 昭和7年5月発行など