【明冶の金沢】
明冶33年(1900)5月、加賀八家と今枝家、津田家(斯波家)の10家が華族になります。諸侯の1万石以上家臣25名が一斉に男爵に叙爵されたことの一環でした。万石以上家臣でも,500円(今の約1,000万円)以上の年収がなかった者や大蔵省の「辛未禄高帳」の記載では万石未満だった者などは男爵になれなかったといいます。
(津田家(斯波家)は、大蔵省の記録では8,500石とあり、戊辰戦争の武功がなければ男爵になれなかったらしい。他、藩政期に1万石以上だった本多政好と横山隆起の2家は、大蔵省の「辛未禄高」の記録では7,000石だったため,爵位を与えられませんでした。)
辛未(かのとひつじ):干支の組み合わせの8番目、60年周期で巡ってきます。「辛未禄高帳」とは明冶4年(1871)に記されたものです。
加賀の10家は、明治33年(1900)年時点では資産1万円以上を所有しており、5% の利率を掛けて算出した収入は年500円(今の約1,000万円)以上となり、その点では華族になる資格はクリアしていました。
(前田長種家(孝)の屋敷跡)
この時点では「没落」した者は皆無でしたが、この後まもなく、家計のバランスシートが悪化し、3家が同時に進退が窮まります。明治31年(1898)に3代目金沢市長になる奥村宗家の奥村栄滋、前田利家公の本家筋に当たる前田孝、奥村支家の奥村則英の3つの男爵家が,債務不履行に陥り,財産差押えのうえ動産が競売にかけられたのです。
(奥村支家跡)
(叙爵の際はほとんどの場合に天皇から多額の下賜金が授与され,男爵については1万円(約2億円)が下賜されたといわています。これはきわめて高額な下賜金で、10家は経済的基盤が強化されたはずです。加賀藩家老男爵が1万円の下賜金を受け取ったかについては明らかではありませんが、もし下賜金が与えられたとしても、3家の負債はそれをはるかに上回るものだったのであり,下賜金は焼け石に水に近かったようです。)
この奥村栄滋は、奥村家宗家の14代で、じつは少なくとも数年前からこれら旧奥村宗家の家計は困難に陥っており,明治33年(1900)に、10家が男爵になったおりも前田利嗣侯爵は彼らの前途を案じて支援策を検討していたものの、同年に死去してしまいます。授爵の際の資産調査には,負債は考慮されていなかったようです。
前田家が幾分かの支援を行ったようですが効果がなく、旧八家中最有力の本多政以、横山隆平両男爵が整理策を講じていたらしいが、明冶33年(1900)に今度は横山隆平男爵が死去してしまい、本多政以が再度前田侯爵家に取り計らって同家からの相当の補助を受けることになりますが、やはりそれだけでは足り無い事が分り訴訟沙汰になります。
明冶36年(1903)11月には、三家の負債は総計12万円に上り、このうち奥村栄滋が最も多く9万円(約18億円)(債権者60名)、次いで前田孝6万5千円(約13億円)(同40名)、奥村則英2万円(約4億円)(同12名)となっています。華族身分は維持されましたが、旧年寄衆の権威失墜はもとより前田侯爵家の信用も揺らぎかねない問題でした。
負債の原因については、華族の対面と言うより、100万石加賀藩の年寄衆としての対面のかかわっての負債で、遊興放蕩のため借財を背負い込んだのではなく、落ちぶれた旧家臣の救済、県や市の公共施設建設費の補助や寄付、その他諸団体の寄付要請や県民による強請(ゆすり)など等でした。
「図録石川県の歴史」には、負債の要因の一つとして、当時、没落する石川の伝統工芸への援助が上げられています。明治の初期、工芸の職人の苦境を救済したのは、旧藩主や旧年寄衆が買い上げ支えたことが上げられています。
(つづく)
参考文献:「図説石川県の歴史」責任編者高澤裕一 河出書房新社 1988年12月発行はか