【金沢・日本】
知人から“武家屋敷って、武士の資産だったのですか??”と聴かれ、屋敷は藩からの借り物で、今風にいえば家賃がいらない使用貸借で、功労があった場合などは、拝領屋敷といって殿様から拝領したものもあるらしい・・・。と答えました。
(武家屋敷は個人のものではなく、今の社宅や官舎のようなもので、社宅や官舎では家賃を払うところもありますが、武家屋敷は家賃も税金は不要でした。)
(加賀八家の武家屋敷跡)
そして、“明冶維新の版籍奉還で天皇にお返ししたので、個人の所有物では無いはずですが・・・”と答えました。どうも、そのへんの事はご存知だったようで、本当に知りだったことは、知人の知り合いで先祖が高禄だった人から“明冶になり土地を軍に寄付した”と聞き「寄付」に疑問をもち質問をしたことが分りました。
(明治3年(1870) 3月。重臣奥村、横山、村井、今枝の4旧邸を兵隊屯所、同病院、練兵場等にあてることになりました。)
(明冶3年、軍の屯所になった八家の跡)
(軍の練兵場が有った跡地)
そうなると一般論では話す分けもいかず、かといって大身ですが家史についてはよく分らないのが正直なところです。そこで、明冶維新を知ることも必要だと思い、「版籍奉還」と「廃藩置県」からちゃんと理解しようとおさらいをする事にし、前々回とダブルことも顧みず調べることにしました。
明冶新政府が、藩政期の武士に対する俸禄支給の整理廃止を断行します。明治2年(1869)6月14日(太陰暦1869年7月25日)の版籍奉還では、今までの藩の知行高を 10分の1に削減します。そして、天皇を日本の一元的な主とし、藩主は藩知事にして旧領を管理しますが、藩知事の任免は天皇の権利となります。そして旧藩士は士族となり旧藩主との主従関係はなくなります。
(版籍奉還では、政府直轄領(府・県)800万石で他2200万石の徴税権は藩にありましたが、士族に対する家禄、賞典禄などの秩禄は、新政府によって支給されることになります。)
(徳川家康を祀った東照宮は、城から下ろされ、後に軍が入る)
明冶4年(1871)7月14日(太陰暦1871年8月29日)の廃藩置県では、年貢を新政府で取まとめ、中央集権を確立し国家財政の安定を図ります。また、全国約34万人に上る諸藩の藩士を大量解雇し、全国の徴兵権・徴税権が中央に集中させ、各府県へは官僚(府知事・県令)が派遣され中央集権体制の土台ができあがります。
また、版籍奉還は、諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)が返還され、廃藩置県では、徴税権は国に移り全国の藩(261藩)を廃して府県を置きます。これにより中央集権的統一国家が確立されます。当初、北海道を除き3府302県(沖縄県の設置は1879年)、明冶4年(1871)年末までに3府71県になり、以後、紆余曲折はありますが、現在は、1都1道2府43県の47都道府県になっています。
(廃藩置県により藩政期34万人といわれる武士は窮地においこまれます。因みに、明冶の軍隊は、西南戦争に参戦した兵士4万人(12%)、日清戦争での兵士は8万人(24%)と武士の再就職が難しく、金沢では失業者が続出します。)
明治4年2月(1871)金沢の人口
人口 24,744戸 123,363人
戸数 人口
士族 4,932戸 26,028人
卒族(足軽) 4,607戸 26,888人
平民 14,907戸 68,810人
その他 298戸 1,637人
合計 24,744戸 1 23,363人
その他:元神官39戸139人寺院259戸1032人御預人466人(卒族は後に士族に含まれます。)
(前田家の梅鉢紋)
もともと藩政期は、藩主と藩士は御恩・奉公の契約関係を結んでいたわけで、藩士は藩主からの軍事動員に応じる代わりに領地や俸禄を支給されていました。俸禄は江戸時代には親から子へと継承されていったので「家」に与えられた俸禄という意味で「家禄」とよびますが、さらに米で支給される場合は「秩禄」、現金で支給される場合は「金禄」といいました。
そして新政府は徴兵制(国民皆兵)が導入されます。徴兵制の原案は士族中心で軍を編成しようとしますが、左院で四民平等の立場から批判を受け、大修正が行なわれ、成年男子に国家への義務として兵役を課すことになり、藩政期のような武士が軍事をということにはならず、武士身分に属したものだけに「家禄」を支給する根拠がなくなってしまいます。
(左院は、廃藩置県直後に設置された行政機構で、立法府にあたるもので、各種法律の起草に着手しますが、明冶8年(1875)、元老院、大審院が設置され廃止されました。)
しかも家禄は、維新の功績により与えられた賞典禄を合わせると、明治新政府の歳出のうち37%を占めます。意味のない支出で政府財政が圧迫されていたわけで、近代化政策を進めたい新政府は家禄の削減を徐々に進め、最終的に明冶9年(1876)、金禄公債証書を交付する代わりに家禄(秩禄)の支給を打ち切ってしまいます。これを秩禄処分といいます。
(藩政期落日)
この措置は、何年か分(数年から十数年分)の家禄を額面とする公債を華士族それぞれに交付するというものですが(額としては,華族が1人平均約6万4000円,士族は1人平均約 500円)家禄の支給を完全にストップさせてしまうと、前にも書きましたが、金禄公債証書の売買、質入も許可され、その買い上げも始めたので、士族は競って公債を売りますが、少額の公債を交付されていた大部分の下級士族は没落せざるをえなくなりました。
参考文献:「経済学で紐解く・日本の歴史(下)」大矢野栄次著、同文館出版(株)平成26年6月発行など