【江戸(東京)】
今、100円均一の店が全国に広がり、品数も多く大型店もあり、見た目にはどの店も繁盛しています。近年、消費税がプラスされワンコインの100円で収まりませんが、江戸時代もワンコインの店がありました。お店の名前は四文屋(しもんや)と言ったそうです。当時ワンコインだった4文(約80円)均一で、お菓子やおでん、煮魚など、食べ物を屋台で売っていそうです。
(100円ショップ)
(「四文屋」、最近は串焼き1串100円の居酒屋「四文屋」として東京や札幌で有名だそうですが、たいがいの辞典では、「江戸末期、四文均一の食べ物や品物を売った大道商人。また、その店。」と1行で簡単に紹介されています。)
四文屋(しもんや)が登場したのは田沼意次の時代です。当時、発行された四文銭が切っ掛けだったといいます。今も昔もコイン1枚で物が買える利便性と、庶民にとって手頃な価格だったこともあり、四文屋という新商売が繁盛したといいます。
(真鍮四文銭)
この四文銭(真鍮四文銭、明和四文銭)は明和5年(1768)4月、幕府が銭の信用回復を狙って発行されていますが、綺麗な黄金色で、寛永通宝鉄銭がきわめて不評だったこともあり、こちらは見事に成功しました。この四文銭は裏側に「青海波(せいがいは)」という波模様が描かれていたため(一文銭も四文銭も表は寛永通宝の文字であり、一文銭と区別するため)、「波銭」と呼ばれていました。
(四文銭、真鍮で裏は青海波)
四文銭も次第に地方でも流通していったと思われますが、この四文銭の発行がキッカケで商品の値段は四の倍数、八文、十二文、十六文が主流になり、やがて江戸では四っで割り切れるものが多くなったそうです。
特に江戸ではよく流通したようで、四文屋が時流に乗って急増します。これは面倒くがり屋が多い江戸っ子に受けて明朗会計の店として繁盛したのだといわれています。また江戸の串団子もその影響を受け、当初は五個刺しでしたが、それを一個一文、一串五文の販売が、この四文銭が流通すると、一串五文ではいちいちお釣り一文が必要になって面倒だと、一個減らして一串四個にして四文で販売するようになったといわれていますが、現在でも関東は主に四個が一串で、関西では主に五個が一串になっているそうです。
田沼意次と言えば、江戸中期の幕府老中です。父は紀州藩の足軽で、徳川吉宗に従って江戸に入り幕臣となります。意次は 15歳のとき西の丸つき小姓として仕え、元文2 年(1737)主殿頭 (とのものかみ)、宝暦元 年(1751)御側御用取次となり、その後、商人を優遇していたことから、商人の力が強くなり賄賂が盛んな乱れた世の中になったと言われています。
また、商業政策の専門家で、 農業より商業を重視したことで、華やかな世の中をつくったと評価が分かれています。近代では「田沼意次=賄賂政治家」というのが通説でしたが、近年は、当時としてはかなり進んだ経済政策を行ったと再評価されています。
従来、幕府財政は米などの年貢収入に依存していますが、それを、運上金・冥加金という形で商人から金を集め、幕府財政の貨幣収入の道を開いたのは田沼の業績であり、今日では研究者の間で田沼意次は高く評価されています。それは、商品経済の発展に伴う賄賂の増加などの反面、幕府の財政基盤の確立には成功します。明和7年(1770)には、幕府の備蓄金は171万7529両と5代将軍綱吉以来の最高値を記録しています。
(昔400円(十九文)ショップは、今100円ショップ)
それから「十九文店」や「十九文屋」と呼ばれ名前の通り、どの商品も十九文均一で売られていた店があったといいます。十九文均一で物を売る店で、二十文より一文安いということなのか、 今の1,980円(イチキュパー)の商品と同じ発想で、割安感が売りの店らしい、 十九文は現在の価値で言うと、約400円弱程度、女心は今も昔も変らないようです。
商品は、四文屋とはかなり違うようで、女性の日常品のかんざしやクシ、糸類、鏡、男性の日常・嗜好品である、キセル、かみそり、子供用のおもちゃや人形、 さらに現代の文具とも言える、筆や墨、お菓子などもおいてあり、当時大流行をしたそうです。
( 江戸に観光にきた地方の人々は十九文屋でお土産を買って帰ったという記録もありますので、 現在外国人がきて、100円ショップでお土産を買って帰るような感覚に似ています。)
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