【金沢及び日本】
加賀藩(金沢藩)では、版籍奉還により、明冶2年(1869)6月14代藩主慶寧公は華族に列しられ、年収6万7,201万石に決ります。慶寧公の実収納63万6,876石の10分の1に北越戦争の功よる賞典禄高1万5千石に対する祖額3千5百14石2斗を加えたものですが、それまで藩主として収入18万石に比べれば少ないが、それは藩政の経費が含まれないので、これが純粋な前田家の収入であることから、それは悪い待遇とはいえず、今の貨幣価値では、年収約18億円(明冶初年の1円は今の3万円として)にのぼり、華族がいかに優遇されていたかが分ります。
藩主の家禄が決まり、それに準じて藩士の家禄が定められ、元100石以下は据え置き、3,000石以上は10分の1とし、それなりに優遇されます。本多政均は5,000石、長成連は3,300石、横山隆平は2,600石、奥村栄滋は1,551,5石、村井又六1,547,0379石、前田豊、今枝紀一郎、奥村則友等1000石以上ですが、加賀藩で家禄を受けていた士族は約15,000人で、大部分が100石未満の約14,700人、約300人が、版籍奉還後は、家禄が一部、現物支給の飯米を除いて、金禄で支給するように変り、されに5年後、士族全員が金禄公債になります。
明冶4年(1871)12月、100石未満の家禄奉還は、4年半分―6年分の1時金を支給し、拝領地であった官地、官林が時価の半額で払い下げということになります。明冶7年(1875)11月になり、高禄者にもこれに準じることになり、徐々に奉還者が増えてきたといいます。
しかし、明冶政府は、1日も早く、西洋諸国並みの近代国家を目指すことから自発的な奉還を待っていられなく、明冶9年(1877)8月、ついに家禄を全廃して一時金(金禄公債証書)を交付します。金禄公債の交付は、25円未満は14ヶ年分、7万円分は5ヶ年分、年利も5―7分で上に薄く下に厚い仕組みになっています。
(家禄は、その家が代々受け継ぐ“永世禄”と個人限りの“終身禄”がありますが、これは“永世禄”の場合で、“終身禄”は半額でした。金禄公債の士族の最高は本多家で27,339円39銭6厘、華族になった前田家は、1,194,076円、年利59,7003円84銭5厘(1円が今の3万円として約18億円)と桁はずれの多額で、前田家はこの資産があり、その後、多額の寄付が可能になってきます。)
金沢では、明冶4年(1871)2月金沢の人口は、士族(卒族含む)が約9,539万人、家族も含めると52,016人で平民は家族を含め6万8810人、神官、寺院、御預人1,637人の123,363 人です。当時、日本の人口は約35,00万人、その内、士族は約34万人。家族もふくめると約200万人と全国民の約6%ですが、金沢では43%と特別な町で、士族の再就職は難しく失業者が続出します。
(明治の西南戦争時約4万人・日清戦争時約8万人と比べると、約34万人は余りも多かったが頷けます。)
版籍奉還から2年後、明冶4年(1871)7月14日(新暦8月29日)廃藩置県が断行されます。年貢を新政府で取まとめ、中央集権を確立して国家財政の安定を図ること、そして西郷隆盛の決断から、一つの君主のよる一つの軍ということから、士分の解体が図られ、また、政府の支出の35%といわれた秩禄が処分され、士族の大量解雇が狙いから、徴兵権・徴税権が中央に集中され、各府県へは官僚(府知事・県令)が派遣されて、中央集権体制の土台が出来上がります。
(廃藩置県前は、軍は各藩から派遣された軍隊で構成されており、統率性も欠き、また、各藩と新政府や新政府内での対立が続きます。それから各藩の中には財政事情が悪化し、政府に廃藩を願い出るところも出ていました。)
また、家禄は金禄証書(一時金)に変っただけで無く、明治6年(1873)には、政府は新たに税を課することになり、しかもその率は高くて、1割2分というもので、収入は激減する上に、こんな高率な税を課したのですから、士族の生活はほとんど致命的な窮乏へ追い込まれ士族にとって踏んだり蹴ったりのありさまでした。
さらに西南戦争が終わる明冶11年(1879)には、明冶政府は金禄公債証書の売買、質入を許可し、その買い上げも始めたので、士族は競って公債を売り、その代金を金融会社の預けその利息で生活しようとします。また、一方で金融会社から金を借りて事業をしようとする者も出でますが、そこへ超インフレです。金融会社の倒産と事業の拙劣から、ほとんどが失敗に終わります。
そして士族は凋落し、はじめて四民が平等の世界が生まれました?
(つづく)
参考文献:「石川百年史」編者石林文吉 石川県公民館連合会、昭和47年11月発行ほか