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神仏判然令①慈光院

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【金沢市内】
70数年、氏神さまとしてご加護受ける石浦神社が明冶まで、神仏習合で石浦山慈光院長谷寺といい、今の鈴木大拙舘のところのあったという事を10数年前、観光ボランティアガイド「まいどさん」に入るまで知りませんでした。


(今の石浦神社)

石浦神社は、古墳時代(547)の草創で、金沢最古の宮といわれています。かっては三輪神社を号し、奈良時代には神仏習合となり、江戸時代には石浦山王、石浦大権現となり、所在も現在の日銀や卯辰山、そして、今の鈴木大拙館辺りへ移ります。しかし、この神社は三輪神社として大神神社の主祭神、大物主大神を奉斎してきました。


(藩政期の古地図)


慈光院の本地仏である十一面観音は有名で、住民からは寺院として知られ俗称ジクイン(慈光院)と呼ばれていました。しかし、石浦神社が延喜式内社三輪神社であることは、承応2年(1653)6月26日書写の「加賀国式内等旧社記」に「三輪神社、式内一座石浦郷石浦村鎮座称石浦山王石浦郷七箇村惣社今属石川郡也」と記されている事でも明らかです。明治の神仏判然令(神仏分離)により、十一面観音及び仏具を宝憧寺へ、 建物も現在地に移り石浦郷の地名をとり石浦神社と改称しています。


(藩政初期の慈光院の氏子図)


神仏判然令!!耳慣れない言葉ですが、明治の初め何が起こったか、そんなことも知らず、何となく使っていまいたが、最近、明治の御一新に興味をもち辿って見ますと、明治を知るうえで神仏判然令はかなり重要なことを知りました。明治元年、明治新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、それまでの神仏習合を禁止するため、神仏判然令(分離令)が発せられています。


(慈光院跡①)

政府は、平田派国学者の影響を受け神道の国教化政策を行うため、神仏習合を禁止します。神仏判然令(神仏分離)により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じ、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じます。それがエスカレートし一部の過激派が政府の意図を越えて破壊が広がり、全国的に廃仏毀釈運動を起こしてしまいます。


それまで大きな顔をしていた僧たちに反感を覚えていた民衆が神仏判然令を「寺を廃し仏像は破壊せよ」と拡大解釈して寺を襲撃するという事態が全国各地で起きたわけです。この時期にずいぶん多くの貴重な仏像が或いは破壊されあるいは海外に流出してしまいました。)



(キリスト教の教会・イメージ写真)


明治4年(1871)旧暦11月12日(新暦12月 23日)から明治6年(1873)9月13日まで、岩倉使節団に同行した副使伊藤博文は「国民を統合するという目的のために、キリスト教に代わる神をつくろう」と考えます。その結果、神道非宗教説に立つ〝国家神道”の始まりで、〝国家神道”は、明治政府が国民の統合のために創られたものだという事が分ります。


(岩倉使節団は、訪問する各国でキリスト教迫害について抗議を受け、明治政府は浦上キリシタンの弾圧を中止し、明治6年キリスト教禁止令が解かれます。)


(つづく)


参考文献:「石川県神社神道史」園田善一著 発行人園田春栄 平成17年9月発行・「石川県の百年」橋本哲哉・林宥一著 発行株式会社山川出版社 昭和62年8月


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