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神仏判然令②白山比咩神社

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【白山市三宮町】
白山比咩神社は“しらやまひめじんじゃ”と呼ばれ、全国に2,000社以上ある白山神社の総本社です。現在は、通称として「白山(しらやま)さん」「白山権現」「加賀一の宮」「白山本宮」とも言われています。祭神「白山比咩大神(菊理媛尊)」は「日本書紀」に登場する女神のひとりです。


(白山比咩神社では菊理媛尊とともに伊弉諾尊・伊弉冉尊も祭神として祀られています。菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、現在は「和合の神」「縁結びの神」としても崇敬を受けています。)



(白山比咩神社)


聞くところによると、古代、崇神天皇7年(前91)に白山を遥拝する「まつりのにわ」が舟岡山の神地に創建され、時代を経て元正天皇の霊亀2年(716)に手取川沿いの「安久濤の森」に遷座して社殿堂塔が造立されたと伝えられています。また、白山は養老2年(718)に越前の修験僧泰澄大師によって開山したと伝えられています。


(泰澄大師は、白山の地で白山比咩大神として崇敬されていた白山妙理権現(本地十一面観音)に親近感を覚え、白山に登山し瞑想していた時に、翠ヶ池から十一面観音の垂迹(仏・菩薩が民衆を救うため、仮の姿となり現れる)である九頭龍王が出現し、自らを伊弉諾尊(イザナギ)の化身で白山妙理権現と名乗ったのが白山修験場開創の由来と伝えられています。)



(白山)


平安時代には、加賀・越前・美濃の3国に禅定道が設けられ、加賀馬場、越前馬場、美濃馬場と呼ばれるようになり、神仏習合により、天長9年(820)には、それぞれの馬場に、白山寺、平泉寺、長滝寺の神宮寺が建立されます。



(白山絵図・白山本地堂)


延暦寺の末寺となった加賀国白山寺白山本宮、越前国霊応山平泉寺、美濃国白山中宮長滝寺は白山頂上本社の祭祀権を巡る争いを続けますが、寛文8年(1668)白山麓は江戸幕府の公儀御領となり、霊応山平泉寺が白山頂上本社の祭祀権を獲得します。


(しらやまさんの参道の神木)


白山、白山比咩神社は、数々の歴史を重ねてまいりますが、今回は神仏判然令という事で、と言うより自分自身が把握していないこともあり、いきなり明治に飛びます。



(参道の入口)


明治の神仏判然令では、白山寺が廃寺になり「白山比咩神社」と号します。加賀の白山比咩神社・越前の平泉寺白山神社・美濃の長滝白山神社の3社が「延喜式神名帳」に記載されていますが、加賀の白山比咩神社が最も古く、全国の白山神社の総本社とされ、白山天嶺の地は本社境内となり奥宮が置かれます。越前・美濃は分霊された白山神社とされ、越前・美濃の白山神社より勧請を受けた他の白山神社も、加賀の白山比咩神社の分霊社に由緒を書き換えられます。


(第二次大戦後は、白山比咩神社は白山神社の総本社として神社本庁の別表神社(旧官幣社など現在で353社)となり、白山頂上の奥宮を中心とする約3000ヘクタールの広大な地域を本社境内として無償譲与を受け、現在に至ります。尚、平泉寺白山神社・長滝白山神社もそれぞれ「白山神社の総本社」を名乗るようになります。)


(白峰の白山本地堂)

神仏判然令における神仏分離は加賀にも浸透し廃仏毀釈運動がおこり、その代表的なものとして白山比咩神社の事例が、昭和62年(1987)発行の「石川の百年」の中に書かれていますので引用します。


「藩政時代のこの神社には、本殿の北に「本地堂」と「地蔵堂」があり、参道手洗の上に露仏の地蔵尊像が神仏判然令(分離令)が出されと破壊され、仏像は白山村(鶴来町)住民に売却されてとりこわされた。露仏の地蔵尊像は、石川郡松任町(現白山市)の白山堂(後に地蔵堂と改称)に安置された。本地堂にあった十一面観音の木彫の座像と「ビンツル」(賓頭蘆)尊像は、金沢市白山町(現石引町)の波着寺に、また、涅槃像はおなじく金沢市野田寺町(現十一屋町)の祇陀寺に、それぞれ安置された。」


(白山比咩神社)


そして「そのほか、鐘楼堂、梵鐘、鯉口は破壊された。他方、白山頂上には、中宮・別宮・三宮の3社があり、神仏混交が行なわれていたが、教部省は明治7年(1874)にこの3社を白山比咩神社の本社と指定した。これを契機に、石川県は、権少属森田平次を担当者とし、白山麓18ヵ村の氏子を動員して廃仏を実行した。山頂にあった仏像・仏具はことごとく下山させられた。」と書かれています。



(白山本地堂の白山下山佛)


寛文8年(1668)以降、越前馬場平泉寺の支配下におかれてきた白山山頂が、明治5年(1872)に、石川県能美郡(現白山市)に帰属させられたことにより、翌々明治7年(1874)になって、石川県令内田政風は、白山山頂の神仏分離を強行し、山頂一帯の堂舎に安置されていた仏像・仏具を廃棄した。さいわい、仏像の破壊をおそれた信仰あつき白山麓18ヶ村の総代の出願により、山頂から下山させられた仏像は、牛首(白峰)林西寺と尾添村に預けられることとなり、「白山下山仏」の名で安置されました。



(白山本地堂の前にある解説板)


(現在は、白峰の林西寺「白山本地堂」では、当時の住職可性法師によって難を逃れた仏像が並んでいます。御前峰にあった「十一面観音坐像」や、大汝峰にあった「阿弥陀如来坐像」別山の「聖観音菩薩坐像」など7体と檜木の宿に有った泰澄大師作といわれる木造釈迦如来像の8体で、こちらにお参りするだけで、昔の白山は、仏教の霊地、いや、山が仏様であったのだということを実感します。尚、廃仏毀釈で白山頂上にあった6000体といわれた多くの仏像が破壊されました。)


(つづく)


参考文献:「石川県神社神道史」園田善一著 発行人園田春栄 平成17年9月発行・「石川県の百年」橋本哲哉・林宥一著 発行株式会社山川出版社 昭和62年8月など


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